障がいとひと言で言っても、先天性か中途障がいかで、本人、家庭の受け止め方は違う。
教員時代。最後に受け持った児童は、交通事故で負った脳挫傷のために、脳の損傷が著しく、意識が戻ったときには自立呼吸はできるものの、身体の硬直がひどく、光への反応がわずか、という最重度の障がいを負った女の子だった。
それまで当たり前に元気に走り回っていた我が子を突然襲った不運。
家族はこの突然の苦難をどう受け止めたのか。
まだ現実を受け入れられないでいる家族に、
バギーのサイズは?
入浴の時間は?・・・
と現実はいつも土足で踏み込んでくる。
退院後の生活は?バリアフリーの住居探しを始めなくては。学校は?
病室に常に詰めている家族とケースワーカーとの面談。そしてその中での授業。
彼女のために、家族のために、何ができるか・・。
家族、医療者の次に近くにいる教員としての私。
それまで何度もいろんなケースにぶつかりその都度大切なことを教えて貰ったつもりだった。
でも一人ひとり違った困難に対して自分にできることをもがき模索する日々は続いた。
子どもたちというたくさんの先生に教えられ、鍛えられてきたのに、自分はちゃんとそれに応えて成長できているだろうか。
毎日が試される思いだった。
そして退職を決めた後に受け持ったこの女の子のことはやはり今でも気になる。
しばらくして、元の職場に行く用事があった。すでに退職しているから病棟へは入れない。子どもたちに会いたい気持ちを抑えながら廊下をいそいそと歩く。が、ふと見ると笑顔のお母さんが女の子に何か話しかけながらバギーを押している姿があった。あの頃とは違う、二人の表情は穏やかそのもの、窓から差し込む日差しの中、対話を楽しむ姿にどれほど安堵しただろう。
「あ、先生。いろいろお世話になりました。そろそろ退院です。元気にしています」
表には出さない苦労がある。でも表に出すにはあまりあるほどの眩しさを感じたのは確かだった。
今年は中学生になっている頃だ。たくさん学んで自分の世界を広げているといい。
父母は我が子に学び、兄弟は他人の痛みに寄り添える思いやりを育み、互いに支え合って暮らしていることだろう。
生徒たちのこと、お母さんたちのこと、今どうしているかな、といつも思う。