「子どもと教育 学ぶということの意味」(青山学院大学社会情報学部教授 佐伯胖氏著)を読みました。
もともと、佐伯氏は著書「わかり方への根源」の中で、
人は生まれたときから、己をとりまく文化になじみ、その文化の発展と新しい文化的価値の創造へ参加しようとしている。
と伝えています。
このことを裏付けるような氏の体験が「学ぶということの意味」に書かれていて、読んだ瞬間、
そうか!
という感動とともにすとん!と腑におちる感覚を覚え、身震いするほどでした。
その体験は、知人のお葬式に参列しているときに実感したこととして綴られています。そのくだりを要約すると、
「その人は母親の友人で若いときに重い病気にかかり、何度も手術を受けたが回復せず、そのうち親類や夫からも見放され30年間を病院のベッドで過ごした。遠方に住む母親に頼まれてその人をたまに見舞う程度。その時は大変な喜びようで、いろいろな話をしてくれた。頼まれたラジオを持って行くと他の患者さんに迷惑をかけないようにと、いつも耳の近くにおいて小さな音に絞って聞き入っていた。
葬儀は病院内の小さな教会で、医師、看護師と少数の知人が参列、それは静かなミサだった。
何も遺さず、ひっそりと苦しみながらひとりこの世を去られた。
『この人の人生は結局何だったのだろう』
参列しながらそう考えていたその時、
『すべての人は、生まれたときから、最期の瞬間まで文化的な営みに参加している』
という自らの公理を確信した」
と綴っています。
本を読み音楽を聴き他人を理解する。
それはまさに私たちと共にある仲間だということ。
その人が「わかる」とき、それはただその人の心の中の出来事ではなく、わかり合うこの世界の文化の営みに参加しているということ。
わかるという、最も文化的な実践に参加していた、ということを確信したと言っています。
「人は文化の営みの中でappreciation(感謝)を持ってappreciate(わかり)合うことで生き、生活している」という氏の表現は絶妙です。
文化とは、
つくる人
つかう人
わかる人
で出来上がります。
ただ、作り出し消費するだけの世の中ならそれは文化とは程遠い殺伐としたものとなるでしょう。
氏が参列中に感じた、
この人の人生とは?
の答えは、
「わかること」を通して、最も文化的な実践に参加していた。
ということになります。
ここで一つ思います。スマイリングのこと。
ー受け身でなく参加型活動ー
という方針を掲げていますが、それは必ずしも動的なこと
~楽器を持つ、 一緒に声を出して歌う、など~
だけでなくてappreciate〜わかり味わう〜という形の参加もあるのだ、
ということ。
ただ受け入れて味わうことappreciation。
活動へのなんとも創造的な参加形態なのだと確信しました。