あるスポーツ選手がコロナウイルスに感染して
「反省している」
という声明を出していました。
あれ?
某大学病院の研修医たちの
この期に及び
しかも立場もわきまえない行動による感染は
もはや反省の域すら超えています。
昨今言う所の
「自己責任」
で片付く範囲でもない。
参加していない職場の同僚にも
感染者が出たというから何をか言わんや。
今後、医師として働くのは
「自粛」してください!
と言いたいところです。
話を戻して、このスポーツ選手
責任を感じるべきなのか・・・・・????
感染や被災は本来、事故あるいは被害であって、
その人の行動に原因を求めるものではなく、
過失とはいえないはずです。
私は今まで
今回の研修医たちのような行動に出た人に当てはまる言葉が
「自粛」
だと思っていました。
私にとってのこの言葉のイメージは
”過ちを犯した後に
反省の気持ちを込めた
「もう同じような過ちはいたしません」
という誓いのようなもの”
だったのです。
英語で言えばself‐discipline(自主性と言う意味で使われる時もあります)
ですから。
しかし、ここのところ
コロナウイルス感染拡大を受けて
不要不急の外出は自粛してください
夜の街に繰り出すことを自粛してください
若者はカラオケ自粛せよ
・・・・
自粛しろ、自粛しましょう
と指示されることに対し
違和感を感じていました。
慎重に行動!
不要不急な外出は極力避けよう!
でいいのではないかと。
街ゆく人のインタビューでも
「自粛してもらうことにしました」
「自粛要請があれば従います」
ってなんか変だな~と。
言葉って
状況によって本来の意味から逸れた使い方をしたり(忖度とか・・)
時代とともにその持つ意味が変わったりするから、
もしかしたら
自分の思い込みはひと昔前に使われていた意味かもしれないなと思い、
「自粛」の意味を調べてみました。
自粛=
自分から進んで行いや態度を慎むこと。他からの強制によらず、自らその言動を抑えること(大辞林 第三版より)
とあります。
私が勝手に持っていた言葉のイメージ
”反省の気持ちを込めた
「もう同じような過ちはいたしません」
という誓いのようなもの”
というのもそうずれていない感触です。
「自粛(自分から進んで行いや態度を慎む)」
とは
状況を判断して行いを自重すること
または、
過ちを犯したならば自らその言動を慎む
そんな時に使えそうだな、と思います。
今回のコロナ拡大に際しても
状況を判断して行動を慎む必要があるのだから
意味合いとしてはOK。
では私が抱く違和感の理由はどこに?
それはその意味より
その使い方にある、ということになります。
「自粛」はあくまでも自分から進んで態度を慎んだり抑えたりすることで
他から強制されることではありません。
自粛せよ、と言われる筋合いではない。
自粛要請とか、一斉自粛とか
主体性というものを元から否定しているところが
なんかおかしい!と感じていた理由です。
また、その使い方に危険さえ感じるのです。
「自粛しろ!」という言葉に非常な圧力を感じます。
自主性を無くさせるような。
押し付けあうような。
フレーズそのものが
万人にとってのおまじないのようになり
右に倣えという心理を生む。
「自粛しろと言っているだろう?
自分で判断して勝手に行動し、何か起こってしまったなら自己責任だぞ」
という
排除的な全体主義を作ってしまいそうで
本当に怖い。
そしてネットサーフしてみると見つけた、見つけた。
犯人はここに。
言葉の手帳というのに載っていた意味は、
ほかの人からの評価を気にすることによって、自ら自分の行動や態度を控えること(言葉の手帳「自粛」の使い方や意味を徹底解剖!」より)
!!!
他からの強制によらず自分から進んで行いや態度を慎むこと(大辞林)。
という意味に加え、
他人にどう思われるかに想像力を働かせ身の振り方を決めること。
という意味もある。
没主体性?
みんなに合わせる?
ほらほら、やっぱり全体主義に誘導してる。
こっちの意味で使っていたのね~
などと斜に構える私。
それにしても
正反対とも言える2つの意味があるのは本当に不思議です。
自粛もそんたくする時代?
一人ひとりが自信を持って判断し
自分から進んで行いや態度を決めるという
当たり前のことが
当たり前にできる社会が
どんどん遠のいていってしまってはいけない。
「自粛」の使い方にその危うさが見え隠れして仕方がない。