私をSHJへと導いてくれた素晴らしい子どもたちとのエピソードを感謝を込めて綴っています。
3歳の頃に小児には珍しい固形がんを発症し、治療の効果が出た小学校の頃、退院して大好きなサッカー練習に励んでいたRくん。しかし時を置かずして再発し、再び長い入院生活を余儀なくされました。中学に入って東大病院に転院し、1年後に担任として深く関わるようになりました。長期にわたる苦痛と制限だらけの生活、不条理と折り合いをつけてきた病院での毎日。入れ替わり立ち替わり病室に入ってくる医師や看護師に励まされる日々。だけどいったい何を信じればいいのか。自分が生きている意味は・・。など、いつも考えていた、年齢よりはるかに成熟した精神を持っていたRくんは、大人にとっても意見を求めたくなるような少年でした。若干十代でありながら人の何倍も苦労してきた彼の言葉は、説得力と重みがあって、一緒にいると自分の未熟さを見透かされているよう、そして試されているような気持ちになりました。
・・時には普段避けているような話、触れたくないような深刻な話まで。
「ねえ、先生だったらどうする?」「これってあんまり人に言わないほうがいいかなぁ・・」
心の深いところまでぐいぐい入ってきて狭い穴ぐらのような個室で秘密会議みたいな雰囲気になったこと、何度あっただろう。
もっとも、私はもっぱら聞き役、気の利いたことなんて言えるわけない。口から出てくる言葉が全て綺麗ごとになって、嫌になる。
それよりRくんの考えに耳を傾けていた方がずっと豊かな時間となったものです。
努力家の彼は英検を受けるための準備を始めました。院内学級でも準会場として筆記試験は実施できても3級からは面接があります。一次の筆記試験を高得点でパスすると、病院から一番近い会場を選んで外出許可をもらい、二次の面接を受検、帰りは病院に届けた帰院予定時間なんか気にせず、餃子を食べに行ったなぁ。
結果はといえば、シャイな彼は会話は苦手だったけど、本番さながらの練習を何度も繰り返した成果が実り、2回目の面接で見事合格。頑張ったね。
体力はだんだん落ちていったけど、高等部に入学すると「医者になる」夢を語ってくれるようになりました。
そのためにはどんな準備をしたらいいのか、主治医や理学療法士など医療者に相談しながら、参考書をお母さんに買ってきてもらっていました。
病室はいつの日か書籍の散乱する受験生らしい!?部屋と化しました。喜んでいいやら「片付けなさい!」と言いたくなるやら・・。お母さんはそんなRくんを誇りに思って見守っていました。
お母さんとも何度も飲みに行ったなぁ。本郷三丁目の駅に向かったところに「炙り家」という囲炉裏のある落ち着く店があってそこが常店となりました。まだあるのかしら。かれこれ10年近くが過ぎました。
彼はもうわかっていた。でも命ある限り、精一杯自分を生きる、そんな決意を秘めた気高さが彼にはありました。医者になるという志を置いていったきり、もう会えないけど、心の中で「先生、頑張れ!」って言ってくれる生徒たちのひとりだ。
会いたいなぁ。
続く・・。