子どもが大切にされる平和な社会へ

〜寛容さとは?〜

3月は卒園、卒業の季節。

そして4月に始まる新しい生活に胸躍らせたり、不安になったり。

特に、小学校に上がる子どもたちは楽しみ半分、不安半分。

幼稚園、保育園では入学準備、近所からは「もうすぐ1年生だね」と声をかけられる。先の見えない怖さを煽る大人の一言は、幼心に辛いものかもしれません。

私が幼稚園や小学校に入った頃は、何も考えずに大人の言うように、自然に当たり前のように身の置き場を変えていく、という感じでした。特に不安にも疑問にも思わずに。誰もがそうだったような気がします。

それだけ社会にどんな子も包み込んでくれる安心感があったのかもしれません。

いろんな子がいました。それ自体がお互いに学び合いだったような気がします。

でも今の子どもたちを取り巻く環境は、大人が決めた規格通りに行動すること、振る舞うこと、成長することを、これまで以上に求めているような気がしてなりません。

その結果、子どもたちは、幼な心に「こうしなきゃ」と自分を押さえつけて大人の顔色を見ながら「いい子」になる、「いい子」を振る舞うようになってきた気がします。

だから「その一言・・もうすぐ1年生だね」が、ちゃんとしなきゃ・・というプレッシャーになり、耳に辛い子がいるのは確かです。

考え込んで先を想像して不安になったり心配したり。

昔はみんなボーッとしてるうちに入学したもの。

今の子は早熟だなあと。

成長の過程や速さは十人十色。伸びやかなありのままの屈託のない子どもをそのまま受け入れ、温かく見守る社会でなくなったゆえの気がします。

この春小学校に上がる孫は、保育園が少し遠く、知っている子が一人もいない小学校に入学します。

昨年の秋から、「みんなと違う学校になんか行きたくない」

「字を書いてもぐちゃぐちゃになっちゃうから勉強もしない」

と時々シクシクと泣くことがあります。

え~、友達なんかすぐにできるよ、とか字は学校に入ってから覚えるんだよ、

なんて言っても不安は全く消えない。かえって、

「なぐさめないでよ」

といった調子。

本当に早熟です。

こんな孫もかつての私のようなボーッとした規格外の子も同じように受け入れてくれる寛容な社会だったら・・。

教育が合理化に走ってしまえば、個性も面白みも、知性も?そだたない。

子どもたちにとって、のびのびと想像力や創造性を発揮し、互いを認め合い、自分を自由に表現出来るような寛容さのある未来が来ますように。

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=おまけ=

とりあえず目下の願いは、孫が、なあんだ、案ずるより産むがやすし、ってことに気づいて思いっきり楽しい生活を送って欲しい。

孫たちが可愛くて仕方ないおばあちゃんの切実な思いです。