つれづれにっき〜スマイリングな日々〜

〜 憧れ〜

子どもの頃に憧れていた

兼高かおるさんが先日他界されました。

幼い頃、家族でよくみたテレビ番組

「兼高かおる世界の旅」

の案内役。

留学後、英字紙でフリー記者として活動するなか、

飛行機を乗り継ぎ世界一周の速さを競うコンテストで記録を作り有名に。

それがきっかけで世界紀行番組を担当することになったとか。

✈️  ✈️  ✈️  ✈️  ✈️

この番組は海外紀行として憧れの存在でした。

日本人の海外渡航が自由化されるより前の1959年に

「兼高かおる世界飛び歩き」として始まり

翌1960年、私がちょうど生まれた年に

「兼高かおる世界の旅」

に番組名が変わったことは

訃報を告げる新聞記事を読むまで知りませんでした。

海外への憧れが日本中に浸透していく、

そんな大きな影響があった番組ではなかったかな。

もっともその頃はまだまだ個人が海外に気軽に遊びに行けるような余裕が

国民全体になかった時代。

高度成長期前半の頃ですから。

だからこそ、人気の番組でした。

じわりじわりと遠い世界への旅を

いつかは・・、と思い描かせる

そんな存在だったのだと今思います。

私が生まれたのとほぼ同時にスタートしてから30年続いたというから、

小さい頃から、父と二人暮らしをしていた25歳までの

長い時間擦り込まれるが如くに

頭の中に残っています。

唯一父と一緒に見て楽しんだテレビ番組だったな、と

ふと父を思い出しました。

いつも不機嫌で偏屈で。

私が作った料理も味が薄いなどと文句を言って絶対に食べない

誕生日にセーターを買っても

こんなの着ないよ

とタンスの肥やしに。

そんな父と唯一会話しながら楽しんだのが

この番組だったことを思い出しました。

仕事柄、海外出張が多かった父は

いつもの仏頂面は棚に上げて、

サムソナイトのスーツケースを片手に

趣味だったカメラを首にかけ

意気揚々と機嫌よく羽田空港を後にしたものです。

そんな姿を

苦笑しながら見送った・・。

そんな父を12年前に見送って帰ってこないのは、

どこか遠い海外で一人を楽しんでいるのかもしれない

などと思ってみたりします。

そうだといいなと。

都会に憧れて単独田舎から上京し

苦学と紆余曲折の末、国際機関に就職。

都会に、次は外国に

思いはいつもそんなだったから

母に苦労をかけたんだろうな。

「兼高かおる世界の旅」

ふと父とのあれこれを思い出させてくれました。

父の名も薫。

それもまた思い出として、憧れとして、

身近に感じる理由かもしれません。