「子どもの権利条約」に
日本は1994年4月に批准した。
その中に「子どもの意見表明権」というのがある。
→子どもは、自分に関係のあることについて自由に自分の意見を表す権利をもっています。その意見は、子どもの発達に応じて、じゅうぶん考慮されなければなりません。(UNICEFホームページ「子どもの権利条約」より)
この権利がなかなか浸透していないために
不幸な事件が絶えないことから
アドボカシー制度を普及していこうという動きがあるが
どこまで進んでいるか
別途、改めて調べてみたい。
アドボカシー制度=英国やカナダで制度化されている子どもの権利擁護活動
まず、
日本の子どもは「意見表明権」の存在と
そして自分がそれを行使できることを理解しているか?
というところに疑問がわくが、
それ以前に、
日本に子どもが意見を自由に述べる土壌があるのか、
が問題だ。
「権利があります」
と謳われ明文化されたものの
この権利
絵に描いた餅と化していないか。
さらに意見を聞く耳を
大人は持っているか。
そもそも
日本では「子どもの権利を守る」という文化が育っておらず、
「大人が保護し子どもは従う」
という関係を今日も子どもに強いていると感じる。
日本では小学校から高校まで
学校が一方的に決めた校則(ブラック校則なんてもってのほか!)を
児童・生徒に強い
子どもたちはそれを無条件に守らなければならない。
学校と対等に交渉などできる環境にない。
しぜん、自分の権利を主張することにも慣れていないので
民主主義というスタンスが育たない。
とても民主的とは言えない教育環境に置かれながら、
「自分の意見を表明しなさい」
「自分の考えを言っていいのですよ」
と言われても、子どもにとっては難しい。
支配・被支配の関係を親や教師から強いられがちな日本の子どもが、
「本音を言おう」としてまず脳裏をよぎるのは
怒られるのでは
罰せられるのでは
という不安だ。
「災いのもと」とばかりに口をつぐむ。
意見を言ったり発表したりする場が少ないから
自分の考えを持つこと
まとめること
間違っていると思うことを間違っているという勇気(本当は勇気などいらないはずだが・・)も
育たない。
伝わるように伝える能力がそもそも
養われず
意見を言うことに自信がないように思える。
そこに未熟だと決めつけ子どもの言うことに耳を傾けず
価値を置かない大人がいる。
ますます子どもはダンマリだ。
悪循環が固定化しているように思えてならない。
いったい義務教育で、
子どもの権利を教え、
「子どもの権利条約で謳われている子どもの権利」を行使する空気を
醸成することは可能なのだろうか。
大人が子どもの意見にまっすぐに向き合う土壌を作ることができるのだろうか。
批准から25年も経ったというのに、
どれだけ子どもの権利が関心を持たれず放置されてきたかを
物語るのが
今年1月に千葉県野田市で起こった
小学4年生の女児の虐待死事件だ。
女児は親から暴力を受けている事実を学校に
しっかりと表明していた。
それなのに
学校も教育委員会も児童相談所も女児の訴えを軽んじ、
彼女は自宅へ戻され殺されてしまった。
ちゃんと自分のことを言い助けを求め
「意見を表明する権利」を行使したのに
その訴えは踏みにじられた。
これが現実。
子どもが大切にされない社会。
この例はたまたまだ、
と言う人もいるかもしれない。
しかし、
日本には
子どもが支配・被支配の関係を
親や教師から強いられがちな空気があること。
いじめを受けていても
集団が苦手で学校に行けない辛さがあっても
学校が子どもの話を軽んじ問題視しない。
そのために苦しむ子どもが一番多い季節がまさに今。
大人は認識してほしいと思う。
子どもの権利を守ろう。
子どもに
本音を言ってもらえないなんて
悲しいではないか。