まだ「日にちぐすり」も効かない頃から、子どもたちは健気に頑張ってくれた。
何日か学校を休んだ後も、下校後毎日見舞いに来てくれた。
病院は歩いて5分のところにある国立病院。
子どもは救命センターに入れないから、メッセージテープをせっせと届けてくれていた。
カセットテープに録音する時代だったんだなあ。2人の子どもたちがママのために毎日語りかけてくれた、大切な宝物。
どんな思いで機械に向かって話していたんだろう、と思うと切なくなる。
これからのことについて父親とどんな話をしたのかも、知らないまま時は過ぎた。
家族は大変な毎日を過ごしていたはずなのに、私はといえば朦朧としたまま、影響の大きさに思いが及ばなかった、とあの頃の自分を俯瞰する。
ただぼんやりと何の輪郭も捉えられない時間が過ぎ、
まるで別の世界を彷徨っていたような、不思議な数日。
見えないところで、知らないところで、自分を想ってくれる人がいる、自分の分まで働いてくれる人がいる、そんな風にあの頃、思っただろうか。この私。
意識がはっきりした途端、
なぜ?
という一方的な思いばかりで、感謝とか、激変した家族の生活に思いを巡らすなんて、しただろうか。
そんな母親の不甲斐なさも含めて母親に起こった事件をバネに、あの頃を境に二人の子どもは強くたくましくなったようだった。
中学2年生だった娘。
「私ね、覚悟したんだよ、あの時」
ずいぶん経ってから聞いた。つらい思いをさせた。
私自身も事故を踏み台にし、自分を見つめ直す機会をもらい、自分の足で歩くことを選んだ。
それは子どもたちに支えてもらって、もう大丈夫って時になってからだけど。