子どもが大切にされる平和な社会へ

〜考える練習〜

昨日、素敵な心の持ち主の少女のことを書きました。

「今自分はどうするべきなのか」

を直感し即行動し、爽やかに去っていった小学生の清々しい行為は、ぐっと心に迫ります。

話は変わって、悪質タックル事件を機にスポーツパワハラが社会問題として浮き彫りになり、その熱は冷めそうにありません。

誰にでも似たような経験があったり、または同じような思いをした友人がいたりして、その時どう振る舞ったかを悔しさや反省を込めて思い出した人も多いのではないかと思います。

今まさに同じような状況にある人にとっては、行動の指針となったかもしれません。

パワハラの現場というのは、

被害当事者として、または他の人が受けているのを知りながら、どうにかしたい、と思いながらも悪化や飛び火を恐れて頭から振り払う。

ただ威圧者の激昂や強権的態度が過ぎ去るのを待ち、ひたすら

「今自分はどうするべきなのか」

を考えることをやめ思考停止を繰り返す、それが事態をエスカレートさせることにつながる。

そんな構図ではないでしょうか。

いじめも然り。

私が中学生の時のいじめは、いじめを受けている人と仲良くした、というだけで標的となりました。味方になってくれた人は一人もいませんでした。それどころか、どんどんエスカレートしていきました。

差別を受けている人、障がいのある人、マイノリティのために理不尽や不自由を強いられている人たちは、

社会からパワハラを受けているようなもの。

一人ひとりの心が、冒頭の少女のようであったなら・・・。

人が成長する過程で、ことあるごとに、

「こんな時。どうしたらいいと思う?」

というような対話が自然に家庭にあったなら。

社会で起こっていることを食事をしながら話題にするのが常であったなら。

そんなちょっとした考える練習が、

考える習慣になって、まわりの出来事に気づき、

「今自分はどう行動すべきか」

に思いを巡らせる癖になっていくような気がします。

悪事や無関心が助長される土壌は、みんなが考えることをやめることでどんどん肥沃になっていきます。

考えること、

あとは少女のような行動力があれば

いろんなことが解決できそうです。