鬱蒼とした蝉しぐれの中佇む母のホーム。
最近忙しさにかまけて会いにいけてなかったことを悔みながら、ケヤキと桜、満開のサルスベリの間を歩く。
ここは私が通った幼稚園の近く。
園でプレゼントを作り、何度か慰問に訪れた原風景の1つでもある。
お昼の時間に母が作ってくれたお弁当を食べてから園児揃って出かけたこと、ここへ来るたびに蘇る。
鉄棒が好きで誰よりも早く登園し、お気に入りの高さの棒を占領したあの思い出の次に強く印象に残っているのがこのホーム訪問。
あの頃は蝉の声に感傷的になるはずもなくひたすら野生児のような毎日だった。
猿よりも上手いと言われた木のぼり。
このサルスベリも私のやんちゃを覚えているだろうか。
鉄棒陣取りに余念のない私のために早くお弁当を作って送り出してくれた母。
そんな母が今、このホームに。
ユーモアのセンスが抜群だからコミュニケーションがとれなくてもその明るさとお茶目な笑顔が癒してくれる。
幼いときは3人兄弟の真ん中という立ち位置が幸なのか不幸なのか、勉強しなさいと言われた記憶がいっさいないほどほったらかしにされて育った私。
姉は初孫だからおじいちゃん、おばあちゃんはじめ親戚の注目の的。
弟は念願の男の子で末っ子だから母は溺愛?!してたなぁ。
私はといえば、ひとりの世界に没頭するのが常で、それが自由でかつ不思議な幸福感をもたらしてくれた、そんな記憶がある。
家族といてもなんだか溶け込んでなかったのだ。
そんな私も、成人してからは何かと母に相談するようになった。
結婚も子育てもそして再婚も!
おっと、これは決意後報告。
なぜだったか・・・。
戦後、父親がシベリアに抑留され、長女の母は6人の兄弟を連れてか弱かった母親をかばいながら満州を命からがら引き揚げ、その後も壮絶な苦労を重ねた。
毅然と前を向く近寄り難さの中に知らず知らず畏敬の念のようなものを感じていた気がする。
私が物心ついたときから徹夜で洋裁の内職をしたり、洋裁教室を開いたり。
地域の暮らし向上のために社会活動をしていた姿も眩しかった。
貧しい暮らしの中、生活の糧を得るのに必死ながら、いつも夢に向かって自己実現を果たしていた後ろ姿に、無言の秘めた憧れが募っていたのかもしれない。
下戸の母だけど、お酒を飲みながら話を聞いてもらうのが好きな私にお茶で付き合ってくれた。
時には明るくなるまで話し続けたときも。
もちろん母の恋バナも面白くて仕方なかった。
発明に凝ってもう少しで特許を取れるところだった悔しい話も。
夕暮れとともにますますさかんな蝉しぐれに浸りながらホームをあとにした。
容赦なく時は移り変わっても、いつまでも変わらないもの失われないものが時間の流れに重なる。
育ててもらった時代から私を誰かも認識しない今に至るまで、母はメッセージを送り続けてくれる。
これからも老いについて身をもって示し続けてくれるだろう。
老いても背筋をまっすぐ、そして使命を貫きたい。
そして母みたいに可愛いおばあちゃんになろう。
世は諸行無常。
でも確かに変わらないものがある。
蝉しぐれにかき消されることの決してない大切な何かを背中でしっかりと感じながら帰路についた。