実態調査による2016年度の都内公立校のいじめの認知件数と、その増加傾向についての新聞記事を読んだ。都教育庁は、増加原因はいじめの捉え方を広げたことが考えられる、としている。
どこか現実に向き合っていない狡さを感じる。
専門家のコメントが続く。「学校が小さな兆候を見逃さないようにしなければならない。いじめの芽を摘み取るために学校ができる具体的ノウハウを示す必要がある…」と。
いじめ防止対策として、「初期段階から対応して芽を摘む」というのは、随分前からよく耳にする表面的表現。その先にある具体策は?
これまで学校がいじめに向き合ってこなかったとしたなら今後、どう向き合うつもりなのか。
文部科学省HP「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識と取組のポイント」の中に、
●全ての児童生徒への適切な教育指導として
1「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならない。いじめをはやし立てたり、傍観したりする行為もいじめる行為と同様に許されないという認識、また、いじめを大人に伝えることは正しい行為であるという認識を、児童生徒に持たせること。
2 いじめられる児童生徒や、いじめを告げたことによっていじめられるおそれがあると考えている児童生徒を徹底して守り通すということを、教職員が、言葉と態度で示すこと。
●いじめの早期発見・早期対応として
教師が児童生徒の悩みを受け取るためには、まず何よりも、全人格的な接し方を心がけ、日頃から児童生徒との心のチャンネルを形成するなど深い信頼関係を築くことが不可欠であること。
とある。
生徒に向き合うよりも、事務仕事に追われて長時間労働を強いられ、過労が蔓延する現場に、子どもたちと深い信頼関係を築く時間的、精神的余裕はない。
家庭に地毛証明を出させる学校が多いというのが最近話題になった。
それに対応するため他府県で色の明るい地毛の生徒に染毛を迫る教員が現れた。
決まりありきで教師自身に想像力のない思考停止が起こる事態。
情けないかな、現実のことである。
人権を平気で侵害する学校が全人格的な接し方ができるのか。
文科省の掲げるいじめ対策が絵に描いた餅にならないことを願う。
大勢の中の一人として数値で評価する教育システムを必要な限りなくし、一人ひとりがその子らしくいていい社会。違いがあって当たり前、違いを評価し合える学校。競争が好きな人、できる人はすればいい。体力の違いや、身体の不自由も人それぞれ。自分なりの幸せのかたちを自由に模索、確立できる社会になれば、意地悪な気持ちや相手を蹴落とそうとする歪んだ競争心も生まれないだろう。いけないことはいけないと声を大にして言える、そして本来人間が持っている正義感をのびのびと発揮できるだろう。
いじめ・・学校の中だけの問題ではない。
社会が変わらなくては・・。
参考資料:文部科学省HP「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識と取組のポイント」