特別支援学校とは特別な支援が必要な子どもたちのための学校。
12年ほど前までは養護学校と呼ばれていて、ちょうど私が最初に赴任した都立北特別支援学校の院内学級にいた2006年に、養護学校から特別支援学校と呼び名が変わりました。
それまでの養護学校の歴史を振り返ってみます。
「学校教育法等の一部を改正する法律」
・・障害種別による学校の区分をなくして、学習障害や自閉症等の発達障害も含めた特別な教育的支援を必要とする児童生徒に、適切な教育指導と必要な支援を行う・・
が成立し、翌2007(平成19)年4月に施行されるに伴う、ネーミングの変更でした。
特殊教育学校(盲学校・聾学校・養護学校「知的障害、肢体不自由、病弱」)のうち該当する学校への就学は、1947年の教育基本法・学校教育法の公布が機となり義務化に至りました。
盲と聾の児童については、すでに大正時代にそのための学校の設置が義務付けられていたことから、そのまま就学は義務となりました。
しかし、重度の障害の子どもに対しては就学免除・就学猶予の措置が執られ、ほとんどの場合就学が許可されなかったといいます。
その後30年も経った1978年に就学猶予、就学免除が原則として廃止されたのを受け、翌年1979年に養護学校の義務化が図られ、入学を許可されなかった子どもも入学できるようになりました。
知的障害、肢体不自由、病弱等のための養護学校の義務制の実施が遅れたのは、盲と聾の学校と違い、実績がなかったことと、敗戦後の混乱と財政的窮乏の中で、一般の小学校、中学校の義務教育をまず優先させたからだとわかりました。
その後、障害の種類に応じた学校が設置されるという形はできたものの、障害児への教育の目指すものが何であるのかがはっきりしないまま学校が次々に作られていったようです。
なるほど、その時点で、
・障害とひと言で言っても千差万別で、「個別の対応が必要」であるという認識自体が欠けていた。
・個々に応じた特別な支援のもと、普通校での教育とは違った、障害に応じたカリキュラムの検討が不十分だった。
と想像します。
特殊教育学校が設置され就学が義務づけられた段階で、実績がなかったために教育方法が検討されないまま学校が次々に作られた、という経緯を考えると、「通学ありき」のような気がしてなりません。
もちろん、十分な数の学校設置は家庭にとっては悲願であったには違いありません。
しかし、教員時代から疑問に思っていた、
「重度の子どもたちの多くが身体が重度、すなわち見かけが重度というだけで教科書が『絵本』であること」
活動を始めてからも、
「重度の子どもや成人に近い方のベッドサイドに行くと、依然、枕元に『絵本』が置いてあったりする」
過小評価の甚だしさ怒りがこみ上げます。
「特別支援の子ども達のための教科書」に星本というのがあります。小学校でこくご、さんすう、おんがくの星1つから星3つまであって学年にとらわれず習熟度別に選べるのです。中学は星4つで3教科。そのほかは一般図書という名の「絵本」なのです。
また、障害のある子たちにも普通校の生徒と同じ経験を、ということで特別支援学校でも、運動会、文化祭、修学旅行などの行事が行われます。
その教育的意義について深く検討されることもなく実施される。
本当はもっと個別の対応が必要なのにと思うと一斉行事をたくさん行うことが乱暴に思えてなりません。
この状況は先に述べた、特別支援学校の歴史と大きな関係がありそうだということを改めて感じます。
重度の子どもたちへの教育がとても難しいことから、教師養成自体が成熟しないまま重度の子どもの数が増え、それに伴い学校の数が増えていった、という背景も忘れてはなりません。
教育を行う側の一方的な考えや基準の枠にとらわれたものになれば、 児童生徒の自信や意欲を奪ってしまうことになりかねません。
そんな中、現場では問題意識を持ちながら熱意と努力と工夫により踏ん張る教師もいる。決められたカリキュラムの中で時間やエネルギーを捻出し、子どもたち個々の本来持つ力を引き出そうとする教師がいるのも事実です。
人としてよく成長し、よく生きる権利は誰もが持っています。
そこに憲法第25条に定める「国民の生存権、国の保障義務」の意味があり、
憲法第26条に定める「教育を受ける権利、受けさせる義務」 が生きます。
特別支援教育が、その難しさに甘んじることなく、子どもたちがよりよく生きる権利を全うするための手法を見出し一般化されることを、願ってやみません。
参考:障害児教育の歴史