2020年の東京五輪・パラリンピックのボランティアの募集が9月末から始まることを受け、ボランティアってなんだろうと、改めて考えます。
学生の参加を期待する文科省とスポーツ庁は、全国の大学などに大会期間中の授業や試験日程について「適切に対応」することを求めていると知り、違和感を感じたから。
権威からの期待、これはある種の強制力を感じさせます。
ボランティア(volunteer) とは、
自由意志を表すラテン語「voluntas」が語源。
ボランタリー(voluntary) とは、
名詞で自発的行為、形容詞で 自由意思による、自発的な、という意味。
ボランティアとはそれを行う人や活動のことで、
「無償で自発的に社会活動に参加したり,技術や知識を提供したりする人、またはその活動。社会福祉、教育、環境保全、保健など、社会全般を対象とする。一般的にボランティアの理念として、自分から行動すること、ともに支え合い協力し合うこと、見返りを求めないこと、よりよい社会の実現を目指すこと,があげられる」(ブリタニカ国際大百科事典より)というのが一般的な定義です。
日本では、1995年の阪神大震災で全国から多くのボランティアが支援に駆けつけたことから,この年をボランティア元年とし、震災が発生した 1月17日を「防災とボランティアの日」としています。
これをきっかけに、市民が主体となって社会問題を解決しようというボランティア活動は、社会的な認知も高まり、個人で、また非営利活動法人(NPO法人)など団体として社会福祉などの分野で、日本でも活発になってきました。
行政の及ばない部分を補う、または充実させるというのが非営利組織の役割。
しかし、行政が公共サービスを行う上で市民の善意に甘えて丸投げしたり予算を削減したりするならば本末転倒です。
今回の五輪に向けたボランティア募集。ボランタリーな精神に委ねるというより、大学のノルマのようにならないことを願います。
自主性、主体性は課せられるものではない。
役に立ちたい、という自由意志から自発的に盛り上がるボランティア活動でなければならないと思います。
行政とボランティアの適切でバランスのとれた連携が必要で、コーディネートを専門とする役も必要かもしれません。
社会の役に立つことが幸せであり、生きる意味であること。欧米では多くの人が持つ一般的な価値観です。
ボランティア文化、寄付文化は、そんな人々の精神から発生するもの。
自分も大切だが他人も等しく大切な存在という人権意識にかかってくるのでしょう。
ここでも、そもそもの本質的なことに思いは向かいます。
生きる意味は?幸せとは?隣人愛とは?
人々の心に自然に芽生える”力になりたい”、そんな純粋な思いがボランティア活動につながっていく。
それは誰に強制されることではないはずです。