各紙面は、ここのところほぼ毎日のように、いじめについて伝えています。
なぜいじめは無くならないのだろう・・。
そもそも「いじめ」とは、
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍してい る等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な 影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」
ーいじめ防止対策推進法の施行による平成25年度からの定義ー
文部科学省ホームページより
3/16の新聞では、24%にあたる全国の公立小中高が法律の定義より狭く解釈していたことがわかった(総務省行政評価局調べ)と報じています。
「継続性」
「集団性」
「陰湿」
という法にない要素を加えることにより解釈を狭めています。
その理由は、
「すぐに解消した事例を含めると相当な数になる」
???
いじめの始まりを、
一過性の嫌がらせ、としてまともに取り合わない実態に、悔しさが込み上げます。
集団性が認められなければいじめでない?
継続性がなくてはいじめでない?
いじめの構造へ少しでも想像力を働かせれば、集団に発展する前は個別的なものであることは自明のことです。
自分の経験に照らし合わせると、やはり仲良しグループの中でのいじめが集団いじめに発展しました。
個別の密室的陰湿さが兆候であり、それを見逃さないのが現場の役目ではないでしょうか。
しかし現場を単純に避難するわけにはいかないのも事実。
生徒の実態を慮る想像力の問題ではなく、余裕がない。
教員が上からの大量の事務仕事をさせられるという「いじめ」を受けていれば、当然時間的、心理的余裕がなく、生徒に向き合う時間が十分に確保できない。
小学校教諭の33.5%、中学校教諭の57.7%が、過労死ラインに相当する週60時間以上の勤務をしていたという2016年の文部科学省による「教員勤務実態調査」の結果を見れば明らかです。
生徒一人ひとりに向き合い寄り添う教師の最も本来的な業務に集中できるような体制作りが先決でしょう。
例えば、
○1クラス25人以下・・教師が生徒一人一人に寄り添えるように
○副担任はクラスに1人・・教師が孤立し問題を一人で抱え込まないように
○教員個々の事務を担当する立場から生徒を支える教職事務制度・・教師が本業に力を注げるように
○部活は外部コーチの採用・・教師の過労を防ぐために
教師が心身ともに余裕を得て、いつも君たちを見ているよという包容力を示せば生徒たちも安心します。
眉間にシワではなく目尻にシワの、明るい笑顔の先生。
いいなあ。
困ったことを互いに相談できるような信頼関係を築き、いじめを早期発見し、適切な対処を一緒に考える、双方へ正面から心に寄り添う学校。
一人一人が違っていいんだ、違いから学び合おうという雰囲気作りができるような愛のある学校。
そんな現場を思い浮かべながら考えてみました。
国は「予算が・・」なんて言わないで!
国づくりの根幹は教育ではないですか?