つれづれにっき〜スマイリングな日々〜

母から受けるライフレッスンはいのちの全体性

「管を外しましょう」

そんな医師の言葉に

「嫌だ!」

と心の中で叫ぶ自分がいた。

ホームにいる母は誤嚥性肺炎を度々起こし

入退院を繰り返し

これ以上は口から栄養を摂るのは難しい、

と告げられていた。

おりしも

右腕を骨折し、治療が始まり

鼻腔栄養と点滴が施された。

「胃ろうを選択しますか?」

医師の投げかけに

なんどもなんども話し合い、

長生きしてほしい気持ちと行ったり来たりの末

きょうだい揃って

「胃ろうはしない」

と下した決断に迷いはなかったが

やり場のないモヤモヤが心を塞ぐ中での骨折。

治療が必要になる、ということは合わせて栄養を摂らなくてはならず

鼻腔栄養となったものだ。

「胃ろうにしない選択」は先延ばしになった。

母は痛みを代償に

私たちに猶予を与えてくれたのか。

それでも、告げられていたよりも早く骨折が治り

改めて「胃ろう」を選択しない代わりの処置「管を外す」の最終確認を突きつけられた。

きょうだいが病院に呼ばれ

鼻腔栄養も点滴も外す時期がきたことを

医師から告げられ

「以前ご家族で話し合われて至った決断でよろしいですか」

という問いに対し

「・・・・・はい」

ときょうだいの一人が答える。

時間よ止まれ!

「では管を外しましょう」と医師。

時間よ止まれ!

と思ったのはこの時が初めて。

すでにできていた流れに対しなんとか踏ん張りたい自分がいた。

もっと生きていてほしい

今管をつけていて命を繋いでいる

それを外すなんて

逆に不自然なような釈然としない思い・・・

外してしまうことが自然なのか、

そもそも人の命について他者が決めていいのか・・・

わからなくなる。

一人葛藤し涙を浮かべる私の

肩をそっと抱いて

「少し話しますか?」

という看護師さんの言葉に

我に返った。

胃ろうの適応

胃ろうの適応は、二つある。

一つは急性に発症する嚥下障害で、

栄養状態の改善が治療のために重要であり、

再び口から栄養を摂取できる可能性がある場合。

もう一つが母の例。

医師に告げられたところによると、

超高齢者や認知症、終末期認知症、遷延性意識障害の患者では、

栄養管理をきちんと行ったとしても

日常の活動や生活の質の改善が期待できず、

単なる延命治療となる可能性がある場合。

胃ろうはしません

胃ろうしながら入院となった場合

コロナ禍で面会は不可。

それも「胃ろうをしない」決断に至った大きな理由だ。

管を外せば残された時間を会いたい人に会い

傷も痛みもなく穏やかに過ごせる。

幼い頃、貧しさのなかで3人のきょうだいを

大切に育ててくれたこと、

成人してから直面した困難のあれこれに

寄り添い励まし続けてくれたことを思い返しながら

ただ生きていてほしいという一方的なエゴで

体に穴をあけ機械的に栄養管理してもらう、

そんな選択は、恩を仇で返すようなものだ。

命の尊厳は無視され

豊かな生は抹殺される。

いのちの全体性を思う

医療処置を受けながら命が続いていくことは

命を終わらせないための対症療法に過ぎない。

面会不可のため会えるのは

決められた時間に栄養を注入する医療者のみ。

今、母は毎日、子や孫、きょうだいと

賑やかに時間を過ごす。

一緒に行った旅行の話。

私たちの苦境を支えたあの頃のことは

今では笑い話だ。

孫にハンドマッサージを受け

娘からエステを受け、

お風呂に入り髪を整えてもらい、

好きな音楽を聴き

好きな食べ物の味を舌の上で味わう。

そして

ひ孫たちの動画を観ながら彼らの黄色い声に耳を傾ける。

たとえもうすぐ命が終わるとわかっていても

私たちにとってはかけがえのない時間。

母の命、私たちの生、

生きることの意味を噛みしめる日々だ。

母が最後まで身を以て与え続けてくれるのは

大切なライフレッスン。

今から約10年前。喋り始めたら止まらない、仲良し親子。
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