~学習机、新一年生にはいらない!?~

娘や息子の時代は当然のようにランドセルと学習机を揃えたもの。

私の場合も、一年生からかは覚えてないけれど、ちゃんと自分の学習机があった。

学習机には引き出しの他に正面にプリントが貼れるようになっていたり、ちょっとしたラックなんかがあったりして、その上には本棚があって、とても機能的でした。そこはまさに「自分の居場所」。

自分の世界で落ち着けた記憶があります。

自分の場所(学習机)に学用品などを収納!し、そして肝心の「学習」は・・・・・

おっと、ここで学習机はいるのか?という問いに納得の答えがひらめいた!

私の場合、アウトドア児だったから机の上にランドセルを放り投げ、おやつもそこそこに外に飛び出したもの。低学年の時に宿題なんかなかった気がするし、その後しばらく学習机ですることと言えば、黙々と好きな工作や手芸をしていろんな素材やガラクタを散らかしていた。

まして、小学校一年生で机にひとり座ってもくもくと宿題をやる、なんて覚えはまるでない。

娘たちの頃も、リビングのソファやダイニングテーブルに母子一緒に座って宿題をしたり、音読などはもっと自由な格好でやったりしたもの。

自室の机の横に家庭教師さながらに親が横にすわって勉強をみるなんていう、絵に描いたような教育ママもいるかもしれないが。

学習机は子供がもっと大きくなって、一人でしっかり集中して勉強するようになってからで十分なんだ!と気づきました(いまさら?

いやいや、習慣は一年生からだよ、という声も聞こえてきそうですが・・。

学習机には振り返ってわかったように、

1 ランドセルの置き場所

2 教科書や学用品の置き場所

3 学校から配られたプリントを入れるケース置き場

という隠れた機能があるんですね。

これだけを取ると、何も決まった形の学習机である必要はなくて1〜3に対応できる棚のようなものがあればいい。スペースも節約でき、整理整頓の習慣もつく。

そして発見

今は学習机の代わりにランドセルラックという便利な収納家具があるそうです。

家の中で「自分だけの場所」というものを子供が持って、そこで持ち物を片づけたりして管理するのは子供にとってとても大切。

子ども専用のスペースがあれば十分なんだといまさら!気づき、先入観に縛られ、形から入ってしまう落とし穴もついでに発見しました💦。

余談ですが、昨日テーマにしたオシャレ高級ランドセルが売れるのは、学習机代が浮いたから、とも取れます。

時代は変わっていきますね。

~ラン活!?~

新学期が始まり、ついこの間まで幼稚園、保育園生だった子どもたちが、ランドセルを背負って、近所の友達と連れ立って登校する姿が見られるようになりました。

園まで送り迎えしていた我が子を玄関先でちょっと心配そうに見送る親御さんの様子は、なんとも微笑ましいもの。

こうやって少しずつ親離れしていく我が子、誇らしさ30%、心配70%といったところでしょうか。

さて、ランドセルの歴史を調べてみました。

大正天皇が学習院入学の時に、当時の首相伊藤博文が皮革製で箱型の通学カバンを特注し献上したのが始まり。130年の歴史があることになります。

かつて、男の子は黒、女の子は赤と決まっていました。

しかし、2001年にイオンが24色のランドセルを発売、その後、刺繍やラインストーンのついたデザインものも出現!.

入学式はそれはそれは華やかでした。

小学生もオシャレになったもんだ!

欧米からの観光客が大人のファッションとして購入するケースも多いことから、メーカー各社、ファッション性も重視したのかもしれません。

サイズも大きく変化しました。

B5サイズだった教科書がA4サイズになったり、2000年代の脱・ゆとりの影響を受け、教科書のページ数や副教材が増え、持ち物の量・数とも増えたからです。

そのせいで、最近では子どもの腰痛が問題になり、メーカーでは大型化と軽量化に苦労しているといいます。

最近は親の目の届くダイニングやリビングで学習する児童がふえ、学習机の売れ行きが激減していると知り、驚きました。

なるほど「学習机とか、必要なものを買ってあげてね」と言って娘に渡した入学祝いが、オシャレランドセル代に流れていたのか!

やけに大事そうに得意そうにランドセルを背負って意気揚々と通学していると思ったら・。

さらに最近ではランドセルにGPS装置を取り付け、位置情報を確認、AIが通学路など児童の普段の行動を学習し、異なる動きを検知すると保護者のスマホに通知されるという機能つきのものもあるそうです。

子どもの安全のためにITが活用されるのはとてもいいことですが、ここまで来たかというのが実感です。

このように、少子化なのにランドセル商戦は活発化し、人気のものが売り切れないうちにあれこれ傾向と対策を練る消費者の研究と店に何度も足を運ぶ活動を、ランドセル活動=”ラン活”というそうです。

ランドセルひとつに子どもを取り巻く社会の変化が反映されているんですね。

学習机を使わなくなった、というところ、この点も掘り下げてみたくなりました。

〜あづみ野へ〜

四季折々、北アルプス山麓の豊かな森と清流が魅力の国営アルプスあづみ野公園へ。

周期的に大自然へ足を運びたくなる習性から、まだ朝夕冷え込むのを覚悟して早春の信州へ出かけました。

おきまりのコースは中央高速を飛ばしてあづみのインターで降り、穂高のあづみの道の駅で車中泊。

道の駅に隣接するほりがね物産センター

で地場野菜や果物、花を買う。

新鮮でびっくりするほどのお値打ち品ばかり。

これだけでも都会から3時間飛ばす価値あり!

今までは烏川渓谷緑地を散策することが多かったけれど、今回はゆっくりと広大な国立公園で冬から春への季節の変化を楽しみました。

発見の数々。

最近都会でなかなか見ることのなくなったつくし。幼い頃の原風景と重なります。

おびただしい数のカエルの卵が浮く池。孵化した頃にもう一度この池を訪れ、おたまじゃくしの群れに会いに来よう。

どんぐりが人知れず芽を出し、土の中に根付こうとしている。国営公園として人の手が加えられ整備されようとも、これだけたくさんのどんぐりが負けじと芽を出している。自然への畏怖を忘れないでおこう。

無数の松ぼっくり。時にはリスにかじられた後のものが転がっている。

キツツキのつついた後の穴だらけの倒木。キツツキの名前の由来は「けらつつき(啄木鳥)」ケラは虫のこと。木の中の虫をつついて捕る鳥という意味だそう。資料館で知りました。

岩の割れ目から覗くスミレ。山野草のたくましさ、健気さが愛おしい。

小川のせせらぎに群生する、これはフキの種類かな。

と、こんな風に自然の営みを体感することが何より好きです。ふと見上げると雄大な、まだ雪をかぶった北アルプスが。

父なる山の麓で母なる大地に抱かれ、そこに暮らす小さな自然と戯れる。

都会に戻ってまた頑張れるエネルギーをたくさんもらいました。

~「愛」ってなんだろう~

愛って何?

と聞かれてパッと説明できる人は少ないかもしれませんが、今燃えるような恋愛をしている人だったら即答できるような気もします。

相手を、

慈しむ気持ち

愛おしい、かわいいと思う気持ち

大切にしたい気持ち

守りたい気持ち

など

もっと広義な意味を見つけたくて辞書を見たりネット検索してみると、やはり

男女の愛や母の子に対する愛など、個人的な感情としての説明が主です。

キリスト教や仏教においてもそれぞれの「愛」の定義がありますが、まとめると、

「何の見返りがなくても、相手のことを大切にしたいという気持ち」

それがもともとの愛の意味のようです。

とても納得します。

そもそもloveという英語が日本に輸入された時には「愛」とは訳されていなかったそうです。それは「愛」は性欲や執着というニュアンスの感情を意味したからだとか。確かに相手を大切にするというより、独りよがりな一方的な独占欲を意味するとしたら、真逆な意味になってしまいます。

私はよく、

とても穏やかで成熟していて包容力があって・・

そんな場面に出会うとつい、

愛があるなあ・・

と感動します。

これはもう個人レベルの感情を超えた全てを包みこむような空気です。

愛とは・・

「何の見返りがなくても、相手のことを大切にしたいという気持ち」

に加えて私なりのもう一つの定義を加えるとしたら、

「自分がこの世を去った後に生きる人が幸せであるようにと願い、行動すること」

だから、今がよければ、自分さえよければ・・

という自己中心的な執着はその対極にあると思っています。

年齢のせいでしょうか、そんな思いとともに、一日一生~明日は何が起こるかわからない。だからまずは今日一日を大切に生きる~の思いを胸に有意義に過ごしたいと思っています。

余談ですが、言葉の持つ意味の変遷には驚かされます。

なぜなら、loveを「愛」と訳さなかった時代の「愛」の意味は”自己中心的な執着”で、”何の見返りがなくても、相手のことを大切にしたいという気持ち”と正反対の独りよがりな意味合いだったのですから。

週の初めに「愛」について書いてみました。

〜電車の中で出会った素敵な人♪〜

先日たまたま、電車の中で盲の方と支援員が音楽の話をしている前の席に座りました。

リストやショパンの話で盛り上がっていて楽器は持っていないから、もしかしたらピアノを弾く方かな。と想像していたところ、会話の中でふと取り出したのは点字のノート。

真っ白でつるっとした厚紙に並ぶドット。

何が書いてあるのかはもちろんわからないけど、音楽家だから楽譜かな。

双子の姉妹でよく連弾をすると話していました。

「双子だからって、打ち合わせもなしで息ぴったりというわけじゃないんですよ」

と話す時のいたずらっぽい笑みがとても素敵で印象に残りました。

全盲であること。それだけで大変な苦労とバリアの中で生活しているはずなのに、この人のきらきらした輝きはどこから来るのだろう。

失礼とは思ったけれど、つい見とれてしまいました。

障がいのある人が、不自由のない人を基準として作られた社会で生きる、そんな姿を目にすると、それだけで圧倒されます。

しかもこの方はそれが当たり前であるかのように爽やかに現実と向き合っている。

困難なく生活する人にはない工夫を日々、駆使しながら生きる知恵。

社会の無理解や差別的な言動という理不尽さに向き合う勇気。

さらに、自由を当たり前のように生きる人への包容力まで併せ持っているかのようなオーラがあります。

とてつもない尊敬の念が込み上げます。

生活の上で物理的、精神的な支援を受けている方たちを思うと、私などはいかに甘えを持って生きているのかを教えてくれます。