教えない授業 -1-

教えない授業~美術館発、「正解のない問い」に挑む力の育て方~

愛媛県美術館学芸員 鈴木有紀著 英治出版

この本は

美術作品をめぐる対話型鑑賞

という手法を使って

「正解のない問いに向き合う力」

「異なる意見に耳を傾ける姿勢」

を育てるというテーマで書かれています。

美術鑑賞・・・

確かに正解はありません。

感性に訴える活動だからです。

それを授業にしようとすると

指導法が難しいだろうな

と思うし、

生徒にとっては

作品を見て感想を言いましょう

と言われても

・・・・・

まるで正解があるかのような錯覚を

生徒たちに抱かせてしまうのが今の教育かもしれません。

だから

思ったこと何でもいい

と言われても

漠然とした質問に答えが浮かばず

または

正解ではないかもしれない「自分の意見」

を言うことをためらってしまいます。

しかし、

問いかけの仕方を工夫することによって

子どもたちがどんどん手をあげて

発言していく

ということを実例を挙げながら

著者は述べています。

「感想を言いましょう」

では上述の通り子どもは戸惑います。

そこで

「作品を見て気づいたこと、見つけたこと、考えたこと、疑問でも何でもいいので話してみましょう」

という問い方をすると

どんな小さなことでも

気にせず気楽に発言するようになります。

そして

発言に対して

「なぜ?」

と聞くのではなく

「どこを見てそう思ったの?」

と聞くことにより

自分の考えが整理され論理的思考の土台が作れると。

互いの意見を聞き合うことで

新たな気づきや疑問が湧き、

活発な思考と発言のやりとり

学び合いが生まれます。

ここに対話型鑑賞の意味があります。

教えるのではなく

問いを投げかける。

誰がいつ描いた作品で時代背景は・・

といったような知識は

対話の中で必要な時に

活動が弾むようにするためのエッセンス

子どもたちを後押しするための材料

として

教師が伝える

または知っている子が発表する

という授業です。

先生は指導する人

ではなく

ナビゲーターだといいます。

少し前に書いた

「子どもの意見表明権」を

子供達がしっかりと行使するためにも

対話型の授業が

大きな力になりそうです。

→ 9/2 投稿「~子どもの意見表明権~」

美術作品でなくても

色々なシチュエーションの写真や場面を使っも

対話型のダイナミックな活動ができるのではないか。

それが実践ということになるのかもしれないなと

感じています。

さらに、正解のある

算数や英語、理科などに

どう応用していくのかな、

という私なりの問いを投げかけながら

読み進めてみます。

「Tokyo 2020 アクセシビリティ・ガイドライン」の矛盾

“障がいの有無に関わらず、すべての人々にとってアクセシブルでインクルーシブな大会”

を実現するためのガイドライン。

2020年五輪・パラリンピック組織委員会が定めています。

このガイドラインの矛盾を

東京都盲人福祉協会が批判しています。

8/9投稿〜来年のことが心配でたまらない

では

激しい運動や不要の外出は避けなければならない

真夏の東京でアスリートたちは大丈夫か!

今まさに酷暑の中で工事現場の作業を強いられる人たちの人権は?

と、疑問をぶちまけましたが、

今回の報道に、

ますます心配な五輪と

委員会の

決定的ななんちゃって人権意識が見えました。

このガイドラインに基づき、

大会関係者向け携帯用アクセシビリティサポート・ハンドブック」

が作成され、

1 接遇の基本

2 スムーズな移動がしにくい方へのサポート

3 視覚による情報が得にくい方へのサポート

4 音声による情報が得にくい方へのサポート

5 伝えること・理解することが難しい方へのサポート

6 補助券を連れている方へのサポート

について場合に応じた対応方法を説明しています。

さらに、ガイドラインの中に情報発信用の刊行物についての方針が書かれた箇所がありますが、問題はここ。

・組織委員会が作成する刊行物は、紙面のコントラスト・光沢、文字の色・大きさ、フォントの種類・太さ、行間、文字間隔等において読みやすい配慮が必要。 

・視覚に障がいのある人が情報にアクセスできるよう、点字、テキストデータ、拡大文字または音声形式、触知可能な地図等で提供できることが望ましい。 

Tokyo 2020 アクセシビリティ・ガイドライン

ところが、

大会のチケット購入方法について説明する点字資料や、

必要な情報を音声で案内するCDを作成していないということを

東京都盲人福祉協会が批判していると

新聞記事で知ったのです。

「ホームページを音声読み上げ対応にしている」

「配慮が必要な人の専用ダイアルを設置した」

「点字印刷物はあとで修正できなくなるため作成すべきでない」

「ガイドラインには情報提供する手段の例示に過ぎない」

と言って対応をしていないといいます。

これでは公平な情報発信ができていないことになります。

さらに

「今後も流動的な情報を点字で案内する可能性は低い」

と。

情報とはそもそも流動的なものではないかと考えると

詭弁を言い放って論破しようという人権意識のなさが透けて見えます。

組織委員会の言っていることと

やっていることには大きな矛盾があり

自らが作ったバリアフリー化の指針に反していると言わざるを得ません。

・組織委員会のHPには膨大な情報があるため音声読み上げには時間がかかる

・専用ダイヤルの案内に行き着くのも困難

と協会は指摘しています。

これでは共生社会とは絵に描いた餅です。

「障がいの有無に関わらず、すべての人々にとってアクセシブルでインクルーシブな大会となるよう様々な取組みを推進しています」

とガイドラインのトップに書かれたその趣旨

が字ズラだけ優しい言葉を並べただけの

薄っぺらなものだということがわかります。

「心のバリアフリー」

「最高のおもてなしで」

という美しい表現も添えられています。

言葉で飾ることは簡単です。

障がいの有無にかかわらず全ての人にと。

しかし、

今後も流動的な情報を点字で案内する可能性は低い

と宣言しているのです。

百歩譲って

間違いは誰にでもある

でも明らかな矛盾を指摘されたら

「今後対応を考える」

ぐらい言えないだろうか。

〜サルスベリ🌿〜

母の暮らすホームの広大な庭には

樹齢数百年という黒々とした老木が何本もあります。

そんな中、ひときわ鮮やかなのが

サルスベリ。

幼い頃

木登りが得意だった私は

サルスベリを好んで登るという

習性がありました。

前世はボスザルか・・

  いやせめて愛嬌たっぷりのお猿さんがいい。

そんなお転婆な私を

母は特に心配することもなく

放置してくれ、

それをいいことに野生児を決め込んでいたものです。

だから

私にとって夏といえばサルスベリ

そして

夏、サルスベリ、蝉しぐれとくれば

母を思い感傷的になるのです。

小さい頃、母に質問したのを覚えています。

「なんでさるすべりっていうの?」

「猿でも滑ってしまうほどツルツルしているからだよ」

ふうん・・・

おかしいなあ・・・

心の中で思いながら

私は猿よりも

木登りが上手なんだ

なんてことは

なぜか胸にしまいました。

家のすぐそばの空き地に植わっていた

サルスベリが

マイツリーだったこと。

幹は確かにツルツルスベスベだけど

枝ぶりが木登りにちょうどいいこと。

訳もなく秘密にしたかった。

うまいこと足を引っ掛けて

スイスイスイと登っていることなど

家族の誰も知る由もなかったのです。

でも少なくとも

木登りが好きな変な子

というところまでは認識していたのでしょう。

小さな姿が見えないと

野に放たれた私を捕まえに

エプロンをつけたまま

おきまりの空き地に来た母は

まず上を見上げていたほど。

「あの木がまさに

サルスベリだったんだよ。

ホームの庭に見事に咲いている、あの木」

と今話しても

あ、そうか

ってな顔をしたかしないか

ま、どちらでもいい。

とにかく

真っ黒に日焼けして

髪はベリーショートのセシルカットだったから

木の上にいたら

誰が見ても

やっぱりサル

だっただろうな。

「都会にもサルがいるんだ」

なんて

よくからかわれたものです。

🌿 🌿 🌿 🌿 🌿 🌿

さてサルスベリは

別名「百日紅」(ヒャクジツコウ)といい、

その名の通り初夏から秋までの長い間咲き続けます。

花は紅色やピンク、白など。

中でも私が好きなのは鮮やかな紅色。

縮れた花びらの小さな花が集まって房のようにたわわに咲きます。

夏の青い空の下

濃い紅色の咲き様はそれは豪華。

それに対して

コントラスト際立つ

白くすべすべの幹が

優しくて

大好きです。

サルスベリの花言葉を調べました。

『雄弁』

枝先に花が群生する姿が華やかで堂々としていることから、この花言葉が生まれまたそうです。

それから

『愛嬌』

堂々とした中にも愛嬌があれば最高です。

『不用意』

サルでもうっかり滑りそうなツルツルとした幹にちなんで。

PTAの会長とか

地域の下水道に関する運動なんかして

雄弁だった母 。

不用意にも

我が子を空き地に放置!していた母。

そんな母はもういないけど

時は変わって暮らす場所は

蝉しぐれの中佇むホーム。

変わらないのは

愛嬌たっぷりの笑顔を忘れず

元気でいてくれること。

かわいくて頼もしい社会活動家発見!

~僕らが髪を伸ばすワケ~

という題の記事に

思わず惹きつけられました。

9月2日付東京新聞朝刊第一面を飾っています。

記事を書いたのは

これまで二度ほど取材してくれた小形佳奈記者。

それも手伝ってか

ワクワクした気持ちで読みました。

まず小形さん、

変わらず社会課題に向き合う人を記事にして

応援しているのが嬉しく

そして今回取り組むのが小学生というのも

心躍った理由です。

小学3年生の少年が始めたのは

「病気の人にかつらを作ってもらうため」の

ヘアードネーション。

ヘアドネーションは

がんや無毛症などで髪を失った人に

医療用かつらを届ける運動で1990年に米国で始まり、

日本では

Japan Hair Donation&Charity(ジャーダック:大阪市)

が18歳未満の患者を対象に取り組んでいます(新聞記事より)。

少年は、

女の子に間違えられたって・・・

なんで女みたいな頭してるの?と言われたって・・

全く気にしていないといいます。

でも夏休みにジャーダックが開いた

ヘアドネーションについての親子講座に出てみると

「からかわれて嫌な気持ちになった」

「中学校の校則で髪を伸ばしてはいけないと言われた」

「先生から男なのに変だと言われた」

という男の子たちに出会い、

いいことをするのにこんなことを言われるのはおかしい!

と強く感じたようです。

そこで

男の子だって髪を寄付するんだ、

ということを知ってもらうために

夏休みの自由研究として

「男の子のヘアドネーション」

を選んだといいます。

講座の会場では缶バッジを作って

「ヘアドネーション中のために髪を伸ばしています」

と表示する缶バッジを配布している女子中学生を見つけ

このバッジをたくさんの人に知ってもらいたいと

新聞社に連絡したと記事にありました。

ヘアドネーションについては

以前綴ったことがあります。

2017/10/5投稿~SHJヒストリー15病棟でおしゃれ!

ここでは

高校生が社会貢献の部活を立ち上げ、

抗がん剤治療中の子ども向けにかつらを作る業者に

髪を寄付しているのを

紹介しました。

人の痛みに思いを巡らすことのできる若者の存在は眩しいなあと。

そして今回は

人の痛みに寄り添おうとしても

偏見や無理解、からかいなどの障壁があることに気づいた

少年の正義感に感動しました。

女みたいと言われたってへっちゃら

それはこの少年に明白なミッションがあるから。

ビジョンに基づいた行動は

困難や偏見さえも跳ね返すということを

少年に教えられました。

夏休みに限らず

自発的に社会課題に目を向け

自分にできること

周りの人を説得する方法・・

大半の時間を過ごす学校で

そんな時間がたっぷりとあったら

世の中、

子どもや若者が

変えていってくれるだろうな。

勉強勉強と急き立てられさえしなければ

仕事に追われる疲れた大人たちに代わって

子どもたちには考え行動する時間がたっぷりある。

正義感あふれ

純粋で思いやりある

子どもたちに社会変革を委ねてみても!

-蝉しぐれ 2-

2年前のちょうど今頃書いたエッセー

ホームに暮らす母を思い

感傷に浸りながら綴ったのを覚えています。

2017/8/21投稿~蝉しぐれ

今年も蝉しぐれの季節が終わってしまう前に

綴りたくなりました。

-蝉しぐれ2-

鬱蒼とした木々から降り注ぐ

蝉しぐれは

なぜかものがなしく

その喧噪が続けば続くほど

いっそう切なくさせるのです。

盛夏の季語

しかし

私は夏の中でも

残りの命を精一杯輝かせようと

夢中で鳴く蝉の潔さに

夏の終わりの切なさを感じます。

9月に入ってひぐらしの

かなかなかなかな・・

という鳴き声に虫たちの喧噪が取って代わると

切なさが寂しさに変わる。

そんな感傷に左右されながら思うのは

なぜか母の生きてきた人生。

命からがら妹弟6人と

ひ弱な母親を連れて満州から引き揚げてきた

その時の壮絶な体験。

そしてやっと戻った祖国の地で

待っていた苦難。

「語り継がなくちゃ。

書いて残してね」

となんども懇願したけれど

叶わぬうちに母は我が子さえ

わからなくなってしまった。

母が大切にしていたものや

こだわって頑固なまでに守ろうとしていたもの・・・

思い浮かべると

切なさを超え悲しみが溢れる。

今それを話題にしても

見せたとしても

心が動く様子は見られない。

母の顔。

今年85歳になるというのに

顔のシワは私より少ないかと思うほど

綺麗な肌をしている。

苦労の多かったこれまでなど

全く知らない、

というふうだ。

時折見せるいたずらっぽい微笑み

ちょっとお茶目なその愛らしい顔

母みたいに可愛いおばあちゃんになれるかな

などと思う。

言葉もほとんど出てこない。

会話など成り立たない。

小さな体にはたくさんの苦労が

年輪のように染み込んでいるはずなのに

もう語ってくれない。

そんな母から教えられるのは

老いへの心構え。

母にバイバイ、またね

をした帰り道、

ホームの庭の大きな老木が

時間は否応なしに過ぎていくということ、

歳をとるということを

覚悟しろとばかりに見下ろしてくる。

蝉たちはといえば

切なさに浸る私をよそに

忙しく絞り出すように鳴いている。

「若い人はいいね」

などと言われていた自分が

いつの間にか

若い人たちに頑張ってほしい、

と思うようになった。

母が体験した戦争を繰り返さないように

子どもが輝く平和な世の中に

していってほしいと。

時は過ぎて時は変わって

私がおばあちゃんになっても

変わることなく季節は巡る。

蝉しぐれ。

平和の中で

変わらず毎年繰り返されることを願う。