モンテッソーリ集中現象!藤井聡太六段!

「対局に入れば集中でき、程よい緊張感だった」という大物ぶり。

「積極的にという方針が功を奏した」と振り返る余裕。

朝日杯優勝を飾った後のインタビューで、プロになり成長した部分は?と聞かれると、

「最近はどの対局も平常心で臨めている」と。

しかしゴールではない、引き締めなければ。と締めくくる。

藤井棋士のこの集中力はどこから来るのでしょうか。

幼少期に受けたモンテッソーリ教育で、好きなことをとことんやり続け、自分らしさを培ってきたからというのが私の分析。

モンテの集中現象とは・・

 

手を使いながら知性を働かせ夢中になれることに出会うと、子供は繰り返し繰り返し同じことをやり始めます。これが集中現象と呼ばれているものです。

繰り返すリズムに合わせるようにして子供は深く精神を集中させていきます。これは感受性が特別に敏感になる敏感期と呼ばれています。

活動をいつまで続けるかが自由に任せられているところでは、非常に深い集中に入ります。

特に3歳の頃は周りから孤立したような姿で何かを一生懸命やっていることがよくあります。

藤井六段は5歳で将棋を始めたというから、敏感期にたっぷりとことん集中して自分らしさに浸っていたのだろうなあ、と想像します。

モンテッソーリ女史はこの子どもの集中力を確かめるため、集中現象真っ只中の一人の子どもの周りで、敢えて他の子ども達と大騒ぎしたり座っている椅子を持ち上げてみたりしたそうです。その結果、その子は全く動じずに自分で選んだ作業に没頭していた、という話はモンテッソーリの本に度々出てくるエピソードです。

「最後まで落ち着き払っていた。決勝では拍手と歓声で会場が騒然とする中、優勝を決めた15歳は対局が続いているかのように、ひたすら盤上を見つめ続けていた・・」

という新聞記事のくだりは、このエピソードそのもののような気がします。

〜日本財団 難病の子どもと家族を支えるプログラム〜

医療の進歩により救える命、日々改善される治療。難病に向き合う子どもと家族。

世界に誇れる日本の周産期・新生児医療体制によって救える命が増えると同時に、医療的ケアを日常的に必要とする子どもが増えています。

治療方法が日々改善される一方、病気と向き合いながら生活する子ども、限られた時間を病気と闘いながら過ごす子どももいます。

どのような状況にあっても、子どもは学び、遊び、刺激を受けながら日々成長します。

そして、子どもの家族、兄弟姉妹は、難病の子どもが成長する期待、喜びを感じるとともに、生活環境の変化、不安に向き合いながら生活しています。

私たちは、「難病の子どもと家族を支えるプログラム」を通じて、難病の子どもと家族の社会的孤立を防ぎ、みんながみんなを支える社会を目指します。

日本財団 難病の子どもと家族を支えるプログラム サイトより

日本財団と日本歯科医師会によるTooth Fairy プロジェクトにより、2015年から病棟、施設での芸術活動を助成いただいています。こちらのサイトでスマイリングホスピタルジャパンの活動が紹介されています。

難病の子どもと家族が孤立しない、みんながみんなを支える地域づくりを目指して、在宅生活、入院生活、キャンプ・旅行を支える施設整備・人材育成・調査・啓発事業を行う33の団体、37の事業に助成するプログラムです。これからも全国へネットワークを構築し続けるこの取り組みは、時代の流れ、ニーズに即した画期的なものです。詳しくは、下のサイトで!

日本財団 難病の子どもと家族を支えるプログラム サイト

 

〜褒めること 共感すること〜

 赤ちゃんはウンチしただけで褒められます。

自然現象なのに褒める?

でもこれは周囲の大人の愛情表現。微笑ましい光景です。

トイレトレーニング中に自分でおしっこができた子にも、

「一人でおしっこできて偉いね!」

とつい言いたくなるのが親心。

私もつい嬉しくて褒めたものです。

でも「トイレでおしっこができたこと」

は「えらい」と上から目線で評価されることではないような気がします。

子どもにとっては、

「洋服が濡れなくて気持ちいい」

「お兄さんお姉さんの仲間入り!」

と得意になれる。

親の立場としては、

「子どもの成長がうれしい」

ということでしょう。

トイレに行くまで我慢できて服を汚さずに済んだこと、そして今までできなかったことができるようになって嬉しい気持ちに、「良かったね。嬉しいね」と共感してあげることで十分な気がします。

褒められること、評価されることに価値を置くことに小さい時から慣れてしまうと危険な気がします。

知った人に会って挨拶した後、ぱっと親の顔を見る子どもをたまに見かけます。挨拶できて偉いね、という何気ない言葉が嬉しかった記憶からでしょうか、これは褒められ依存?そんな違和感があります。偉いねと言われたいから挨拶する、無意識のうちに、いいことは褒められるためにする、というような。

モチベーションを人の評価に置くのではなく、自分の行動が、相手を気持ち良くさせるということが分かったら、人にほめられてもほめられなくても、自分で考えて行う姿勢が身につくはずです。

モンテッソーリ女史は、自発性を損ねるからという理由で、本来子どもに賞罰は必要ないという考え方です。

ここにも私がモンテッソーリ女史を尊敬する所以があります。

しかしそうはいっても、褒められるのは誰だった嬉しいものです。それが頑張ってできたことに対する賞賛であれば問題ないですが、やって当たり前のこと〜挨拶など〜に対するものであれば避けるべきでしょう。このくらいのことで親は自分を評価するのかと、かえって期待されていない感を植えつけ、幼心に傷つくかもしれません。

褒めること・・何気ないことですが、なかなか奥深いです。

〜介護者の声を代弁して〜

今日2/14の東京新聞朝刊に、先日ブログに書いた思いを載せていただきました。

音楽プロデューサー・小室哲哉さんの孤独な介護生活、それにまつわる諸々の報道に対して感じたことを発言欄に投稿したものです。

介護者の声なき声を世に知らせる力強いメッセンジャーとなることが、「辞めないで」というファンの声に応える最善の方法ではないか。

プライベートが注目される立場を逆に利用して同じ境遇の人々の代弁者となり、社会に問題提起してこそ、著名人としての使命が果たせると思う。

試練をチャンスに!

そんな感想を寄せたところ、編集者さんから連絡があり、細かいところを電話で打ち合わせ、校正の上、掲載に至りました。

これはやめられないかも・・。

 

〜子どもと静寂〜

モンテッソーリ子どもの家を訪れるとその静けさと落ち着きにびっくりすることがあります。

初めて見た人は子どもらしくない、という印象を持つかもしれません。

子どもはのびのびと駆け回って元気いっぱい遊ぶもの、そして幼児期はそうであるべきと私も考えます。

だからといって、子どもの家では静かに活動することが強制されているかというと、全く逆です。

もしそうだとしたら、特にこの時期静かさを強要しては、子どもの言語発達や社会性に多大な障害をもたらすに違いありません。

この静かさは、子どもたちの内面からのもの。自分で選んだことに夢中になっている結果が、集中、そして落ち着きをもたらすのです。

決して静かにしていることがモンテッソーリ教育の目的ではありません。

この集中現象の中に、実は心と身体の成長への大きな鍵があります。

度々触れていますが、自分が選んだことに集中して達成感を持つ、気がすむまで繰り返して元に戻す、この一連の活動を繰り返すことによって、自信や意欲、好奇心が育ちます。

その活動の面白さを身体で感じ満足しているから心が安定し、他の子が待っていたら自然と譲る他者への思いやりも育ちます。きちんと元に戻すのも次に使う子のためです。

身体的な成長とは、集中して活動する中で、手や目や道具を使っての基本的動作「つかむ」「入れる」「切る」「挟む」「塗る」「鉛筆を持つ」「束ねる」などを繰り返すことによって、巧緻性やボディイメージの獲得、そして安全への意識も生まれると考えます。

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息子が子どもの家にいた頃の強く印象に残っている、静かさにまつわる事例があります。

自由時間を終了し、一斉活動を始めるために先生が子供達を集める時のことです。

はじめは「みなさ~ん、お片づけをして集まりましょう」と言って集合させました。

子どもたちは作業を片付け始め、椅子に座ります。

しかし、中には聞こえていない子、またはゆっくりと支度をする子どももいて、なかなか全員が一斉に集まる、とはなりません。

次に全員に向けて、聞こえるか、聞こえないかというくらい小さく、

「みなさん・・」と声をかけ始めました。

一度で動かない子には、とかく声を大きくして「ほらほら、早く。みんな待ってますよ」などと暗に「困った子」という烙印を押してしまうものです。

さて、先生の小さな声は不思議とみんなに気づきをもたらし、さささっと全員があっという間に集まりました。

強制的とは真逆の、空気を読む力、今どうするべきかを自分から気付く力を養っているようでした。

他の子より遅いことでみんなの前で半ば怒鳴られ、仕方なく片づけて椅子に座ることになったら面目丸潰れです。

この子どもの家の「集合の仕方」は、自分から気づき動くことの大切さに加え、決して自信を失わせたりはせずにソーシャルスキルを身につけさせる素晴らしい機会だと感じました。

子どもと静寂・・実は切り離せない、大切な要素だったんですね。