〜大人と子どもの争い〜

子どもが一人で活動できるようになると始まるのが大人と子どもの争いとモンテッソーリは言います。それまでは五感で生活を味わっていた小さくて柔らかい癒しの存在、安心してかわいがっていたのに・・・。

「触っちゃダメ!」「危ない!」「なん度言ったらわかるの?」懐かしいなあ。今でも孫が来ると同じようなことを言っているような気がします。せっかくばあばの家に遊びに来てくれたのに・・。

子どもがしゃがみこんで何かしています。モンテッソーリが近寄って見ると、そこにマンホールのふたがあって、その子はそのマンホールのふたのでこぼこをしきりに触っています。医者である彼女は手のひらと大脳とが発生学的に同じ胚葉からできていることを知っており、子どもがデコボコを感じていることは同時に大脳にも刺激が与えられていることがわかっていました。感心してみていたのもつかの間、お母さんが「汚い!」といって乱暴に子どもの手をとって汚れを払い手をひっぱってさっさと歩き始めました。

子どもの行動をなじり否定して自分のペースで引っ張っていく大人の身勝手さにモンテッソーリはさぞがっかりしたことでしょう。このような光景は日常よく見られます。自分に置き換えてみても、忙しいのにゆっくりと付き合っていられない場合がほとんどでした。子どもがもっとやりたい、感じたい、動きたいと懸命に抗議しても子どもの世界を知ろうともせず、まるで力づくで支配していたかのようです。夢中になって感じながら大切なことをじっくり学び取っていたに違いないのに・・。

大人がそんな子どもの活動をただのわがまま、未熟な意味のないこと、不従順な困った行動と取り続け、やがて暴君となれば子どもにとって精神的苦痛の原因になってしまいます。「幼い時に心を踏みにじられた人は大きくなった時必ず復讐します」とモンテッソーリは言っています。「大人が押しのけて子どもの意思を拒否し、自分の気の済むようにした時、それは子どものこころを押しのけていたのだ」と。

今目の前で夢中になってやっているのは何を学ぼうとしているのかな・・。

幼児の一見意味のないこと、と思えることには、自然の法則を学ぶという大きな意味がありそうです。イライラを抑えてまず深呼吸、そして科学的に考えてみる必要があるようです。子どもの立場になってみる、子どもの宇宙を観察してみる、という感じ。体全体でいろんな事象の仕組みを学習していると捉えれば、それをしやすくなるように環境を整えてやる工夫もまた楽しくなるかもしれません。時々遊びに来る孫たちと今度は何をしよう。しかし、こちらがお膳立てするまでもなく、不思議と思ったりやってみたいと思ったりしたことに自ら挑戦する彼らです。生活にある身の回りのものすべてが興味の対象。どこまで彼らが自ら学ぶ環境を作ってあげられるか・・・楽しみです。おばあちゃんと孫の争いに決してならないように!

モンテッソーリ教育に興味を持たれたら是非読んでいただきたい一冊を紹介します。マンホールのエピソードはこちらから引用しています。

モンテッソーリの幼児教育「ママ、ひとりでするのを手伝ってね!」相良敦子 講談社

子どもをどう観察してどのように寄り添えばいいのか、具体的な工夫の仕方などが詳しく書かれています。

〜モンテッソーリの発見〜

将棋界最多の29連勝を達成した最年少棋士、藤井四段が、東京新聞主催王位戦予選初勝利を飾りました。

藤井四段の集中力について以前取り上げた時、彼の受けたモンテッソーリ教育について触れましたが、改めてモンテッソーリ教育について書いていきたいと思います。

モンテッソーリの発見・・とは「自分一人でできるように手伝ってください!」と叫んでいる子どもの事実です。そこに着目してこの教育法は生み出されました。

「自分で!自分で!」「僕がやる!」「「私がする!」という子どもの声は誰もが聞いている言葉。うるさいな、と自分でやろうとする子どもの手を振り払って「あっち行ってなさい」「危ないから触っちゃダメ」「あなたには無理!」などと言って子どもを諦めさせるのが”邪魔者”を振り払う大人の常套手段。大きな声や手早い仕草で子どもの心を行動を一蹴してしまいます。子どもは大人に対して常に弱い立場にいます。特に幼児期はその弱い立場に甘んじて大人に頼らなければ生きていけないから、大人のどんな勝手な言葉にも屈せざるをえません。大人はそこにいるだけで子どもにとって脅威、という言葉を子育て中に母からよく聞かされていました。母にも反省があったのでしょうか。大人には我が子が幼児の時期ほど勝手に権威を振るい、弱くて素直な子供の前でいつの間にか自分の思い通りに支配するようになりがちです。子供のためにこれだけしてやっている・・という傲慢が言い訳となっています。それがかえって子どもの意欲を削いでしまっていることに気づかなくてはなりません。私も子どもたちが小さい頃、「また仕事が増えるな」と思いながら、モンテの言葉を思い出し工夫していたのを覚えています。

子どもは大人の支配よりはるかに強い自然の力に支配されている、とモンテッソーリは言います。大人は子どもが自分で成し遂げねばならない宿題を自然からもらっていることを見極め、それに立ち向かっていくのを助けなければならないと。

モンテッソーリは、さらにこう言っています。

「服を着せたり顔を洗ってやったりすることは奴隷のすることです。子どもが自分の心と体を自分で使って、その時期に成し遂げなくてはならない課題に取り組めるよう、大人は励まし続けることです。大人がしてやるのではなくて、子どもに自分でさせるのです」

ではそのために大人は子どものためにどうすればいいのでしょうか。それは一人でできるような環境を整えてやるということです。世の中はすべて大人サイズにできていて大人の都合に合わせた環境です。だからトラブルが起こります。子どもの興味のもつような身の回りのものを子どものために適切は形や大きさに整えてやること。子供を援助する心構えを持つことが前提にあれば工夫がかえって楽しくなるかもしれません。子どもをよく観察し何を感じているのか、何をしたいのか教えてもらうことです。

「私がやる!」という言葉には子どもの人格の尊厳があり自立への強い憧れがあります。モンテッソーリが着目したのは、普遍的な子どもの生命力です。時代が変わっても文化が発達しても変わらない子どもの生命力に畏敬の念を抱き、自らよく生きようとする命を助けるのが大人の仕事。なんという深い愛に満ちているのでしょう。

「モンテッソーリの発見」をもっと深く知りたい方へ

「モンテッソーリの発見 Maria Montessori Her Life and Work」     E.M.スタンディング著、クラウス・ルーメル監修

著者スタンディングは教育学者で、モンテッソーリに多大な影響を受け、モンテッソーリが他界するまでモンテッソーリ教育法の普及、発展に大きな功績を残しました。

〜Sense Of Wonder〜 美しさ、神秘さにあふれる自然に入ってみよう!

 

Sense Of Wonder
~子どもたちへの一番大切な贈り物~
レイチェル・カーソン 著

大自然に抱かれ、大好きな「センスオブワンダー」を読み直してみたくなりました。
レイチェル・カーソンは、1962年に著書『沈黙の春』で農薬や化学物質による環境汚染や破壊の実体にいち早く警笛を鳴らしたアメリカの海洋生物学者です。

アメリカで半年間で50万部も売り上げ、後のアースディや1972年の国連人間環境会議環境保護運動のきっかけとなりました。

「センス・オブ・ワンダー」は、レイチェルが幼い子どもと一緒に自然を探索した体験をもとに書かれたエッセイです 。子どもたちと自然の中に出かけ、神秘さや不思議さ、美しさに目をみはる感性を育み、分かち合うことの大切さを伝えています。


子どもの頃は誰もが豊かに持っている「感じるこころ」。おとな達は誰もが「子どもたちにこころ豊かに育ってほしい」と願います。でも、大人たちは、子どもたちと感動を分かち合っているでしょうか。
人工的なものに満足して自然から遠ざかったり、自然に触れても知識を身につけることに気をとられ「感じる」ことをしなくなっているのではないでしょうか。
・・・大切なのは、まず「感じるこころ」を育み、輝かせること。

大好きなくだりをレイチェルの著書から抜粋します。

寝る時間がおそくなるからとか、服がぬれて着替えをしなければならないからとか、じゅうたんを泥んこにするからといった理由で、ふつうの親たちが子どもから取り上げてしまう楽しみを、わたしたち家族はみなロジャーにゆるしていました。ともに分かち合っていました。

子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になる前に澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない<センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性>を授けてほしいとたのむでしょう。

この感性は、やがて大人になるとやってくる怠慢と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。

もし、あなた自身は自然への知識をほんのすこししかもっていないと感じていたとしても、親として、たくさんのことを子どもにしてやることができます。

たとえば、こどもといっしょに空を見あげてみましょう。そこには夜明けや黄昏の美しさがあり、流れる雲、夜空にまたたく星があります。

「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。

子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。

人間を超えた存在を意識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことは、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法にひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。

わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。

以上、レイチェル・カーソン著「センス・オブ・ワンダー」から紹介しました。全文をすべての大人たちに読んでほしい。そして子どもたちと一緒に不思議に思ったり、自然の営みに感動したりしてほしい。きっと幼いころの原風景が蘇り、こころが動く瞬間が沢山得られると思います。

!人口知能について考えた!

人工知能(AI)の進化に伴い、これからの子どもの教育現場はどう変わっていくのでしょうか。

私が子どもの頃・・・やっと家庭に白黒テレビが普及され始めた頃・・・は漫画の世界に入ってうっとり憧れ、ありえないこととしてどこか安心して空想を楽しんでいた、平和な古き良き昭和。実はじわりじわりと開発が進んでいて気づいたらものすごいスピードで科学が進化している! VRの出現に驚いたのはつい最近で、時を置かず今では多くの企業で顧客への商品イメージ作りなどに使われ、アトラクションとしてもそこここにあります。スマホどころかロボットまでが当たり前の社会になりつつあります。このままだと人間が創ったはずの文明に、人間が支配されてしまう!? SF映画を想像してしまいます。

知識を詰め込むだけの教育ならAIの存在は教育者にとっても脅威となります。しかし、数値や分析、知的情報処理システムの先にある、コンピュータが判定した結果をどう判断し、どう活用するのか、それはAIには決してできない役割であり、これまで以上に人間力を試されることになるのではないでしょうか。「知識」の価値自体が下がってくる、という意見ももっともで、人間性の向上や社会貢献・・逆説的かもしれませんが愛とか真心とか生きる意味なんかがこれからの教育の柱になるのでは?

ということはITこそ、新しい価値を生む存在とも言えます。

また、

ITこそ、日常生活になんらかの困難を抱える人の力になるべきである

と常日頃思っています。

私事ですが、交通事故の後遺症で右手で細かな作業ができず書字作業に苦労しました。17年も前になりますが、教員免許をとるためにレポートを作成したときの事。あのころPCを使うことが一般的であったなら、と。左手でなんとか仕上げたレポートがあまりにも乱筆だったため、大学の先生に真面目にやりなさい、などと叱られたとき、訳を伝えると最後の一枚まで大変だろうけど、頑張れ!と激励の言葉をもらいました。ワープロでいいよ、と言っていただけたらなお嬉しかったけど。

来年からはじめる在宅学びサポート事業はまさに重度の障がいを持ち自由に動けない方たちの学習をITや様々な支援機器を使って支えようというもの。

技術の進歩が、とにかく先へ先へ、新しいものへと駆り立てるのではなく、困難を減らしてよりよく生きるためのツールとなること、人間には危険とされる作業への活用〜現在なら原子炉の水中ロボットなどがこれにあたるでしょうか〜も含め、平和利用にのみ発達していくことを願って止みません。

〜夏休み、給食も一休み〜

子どもたちが待ちに待った夏休みに突入、親としては裏腹に、さて長い休みを子どもとどう過ごそうかと非日常の忙しさに追われる家庭も多いのではないでしょうか。毎年変わらないこの時期の家庭の風景ですが、ここ数年別の現象が固定化の兆し。こちらは深刻です。「学校が休みに入る=栄養不足の子どもの増加」という、給食がなくなるために起こる図式です。子どもの7人に1人が貧困、という実態をこのまま放っておけない、と個人や民間の団体が運営する子ども食堂が増えていて、本当に頭が下がる思いです。給食が一休みとなった今、私も立ち止まって学校給食のことを考えてみました。

主食、おかず、牛乳のすべてを提供する方法を完全給食と言いますが、文部科学省の2015年度の調査では、全国の公立中学校での実施率は88.8%で、公立小学校の99.6%に比べて低いことがわかります。

実施していない理由は、財政的余裕がない、弁当が定着している、などだそうです。持参の弁当か、民間業者などが配送する給食かを選ぶ「選択制」を採用する市もあり、その中で給食を選ぶ生徒の割合は、堺(約7%)、和歌山(約20%)、盛岡(約31%)。選択率が低いのは、費用の前払いや予約の手間、「周囲が弁当なのに給食を選びにくい」といったことなどだそうです。

学校給食法は、義務教育では「給食が実施されるように努めなければならない」と定めています。中学校の給食費は月額全国平均4900円前後。生活保護世帯には保護費の教育扶助として支給されますが、就学援助の対象にしていない自治体もあり生活保護に準じる困窮世帯に対しては支えになっていない現状があります。ただ、低所得の子だけ支援すると差別を生み出すかもしれません。行政は全員を対象とした完全給食、給食無償化を目指すべきです。子どもの成長を支えるという国の務めとして当然のことだと思うのです。

家庭環境による栄養格差を縮めるセーフティネットの観点から、そして、栄養を補うことに加え、同じメニューをみんなで楽しく食べるという食育の役割も持っています。食べる、という子どもたちが大好きな、そして生きるための基本的活動の中に、差別や引け目など心の格差があってはなりません。心豊かに、生きることを楽しむ大人に成長するための基本が、みんなで楽しく食べる、という行為に凝縮されているように思います。