絵本作家としてずっとずっとやりたかったこと📚

お話も絵本も紙芝居も

そして笑顔も

ぜんぶ手づくり!

保科琢音さんは

絵本作家として「あっかんべー」を出版。

そして紙芝居作家として「もうすぐあえる」など。

「読絵ん会(どくえんかい)」

という名の読み笑わせ口演も精力的に行っている

アーテイストです。

なんと口演場所は500以上!

さらにベトナムホーチミンの幼稚園など

海外でも活躍されているというから

そのパワーには驚かされます。

保科さんの得意技は老若男女すぐに笑顔にしてしまうこと。

そのツールは全て手作り。

SHJの活動初回は

神奈川県立こども医療センターでの

絵本と紙芝居の読み笑わせでした。

紙芝居は全て原画です。

大きな箱(こちらももちろん手作り)にぎゅうっと詰まった

楽しい紙芝居の数々。

原画だから消毒布で拭けません。

原色の色使いが子どもたちにはとてもはっきりと見やすくて

わかりやすくて楽しい、そして

明るい気持ちになるに違いない!

という直感から

絶対に子どもたちに見せてあげたい!

と粘りました。

消毒できないものは

この日の活動病棟「クリーン病棟」(骨髄移植や化学療法を行う病棟)

には基本持ち込み禁止です。

それは一旦触れてしまうと

感染に極端に弱い子どもたちにとっては大変危険だからです。

絶対に触れない位置で

ある程度の距離を保って

という条件で晴れて病棟に持ち込むことができました。

興味を持てばつい触りたくなります。

そんな子どもの伸びてきた手を自然に戻す保育士さんの力も

愛情たっぷりでした。

「病気と一生懸命たたかっている子ども達が、ぼくの絵本と紙芝居で笑ってくれる。

ただただ、それが嬉しくて幸せでした」

と保科さん。

病棟での活動の後は兄弟預かり*コーナーへ行って

きょうだいさんたちと保育士さんたちに

紙芝居を披露。

*→2018/6/19投稿入院児のきょうだいあずかり

こちらでも

「このカゲなんのカゲ?」

の参加型紙芝居が大好評でした。

「たたかっている子ども達は病室の中だけじゃない。

きょうだい児もみんな、家族と一緒に頑張っているんだよね」

と。

さらに

「今、やれることはやれた。

も、絵本作家としてやれることはもっとある。

来月にむけて、またシッカリ準備します」

と。

プロ意識が光ります。

「スマイリングホスピタルジャパンの活動も、もっと知ってもらえるよう、だからこそ絵本作家 保科琢音として、もっと精進します」

ともFacebookで伝えてくれました。

「絵本作家としてずっとずっとやりたかったこと。

大袈裟に言えば夢がひとつ叶った日。

そう感じることができた日」

保科さんの気持ちがとても嬉しかった日。

📚 📚 📚 📚 📚 📚

その他の保科さんの活動を紹介します。

✔︎Webサイト「ヨコハマNOW」にてコラムを連載中。

✔︎絵書家筆之輔(えかきやふでのすけ)の芸名で落語家として活動。

✔︎神奈川県を中心に落語会や落語イベントを開催。

✔︎横浜市内の小学校にて落語の授業を数多く担当。

✔︎2017年3月小学生60名が出演した「大黒寄席」プロデュース開催。

✔︎父親と子ども達による演芸クラブ「背中の集い」企画代表。

✔︎毎月定例の落語会として横浜市保土ヶ谷区の「しばた。寄席」地域情報紙「タウンニュース」にて落語こらむを連載。

✔︎2018年 国際交流基金アジア市民交流プログラム助成を受け、ベトナム・ホーチミンでの活動を開始。

絵本作家保科琢音のホームページ 

『絵本作家としてやりたかった、夢のひとつ👅/

保科琢音Facebook 

おまけ・・

あっかんべーは孫たちも大好き!

〜教科書が絵本!?〜

特別支援学校とは特別な支援が必要な子どもたちのための学校。

12年ほど前までは養護学校と呼ばれていて、ちょうど私が最初に赴任した都立北特別支援学校の院内学級にいた2006年に、養護学校から特別支援学校と呼び名が変わりました。

それまでの養護学校の歴史を振り返ってみます。

「学校教育法等の一部を改正する法律」

・・障害種別による学校の区分をなくして、学習障害や自閉症等の発達障害も含めた特別な教育的支援を必要とする児童生徒に、適切な教育指導と必要な支援を行う・・

が成立し、翌2007(平成19)年4月に施行されるに伴う、ネーミングの変更でした。

特殊教育学校(盲学校・聾学校・養護学校「知的障害、肢体不自由、病弱」)のうち該当する学校への就学は、1947年の教育基本法・学校教育法の公布が機となり義務化に至りました。

盲と聾の児童については、すでに大正時代にそのための学校の設置が義務付けられていたことから、そのまま就学は義務となりました。

しかし、重度の障害の子どもに対しては就学免除・就学猶予の措置が執られ、ほとんどの場合就学が許可されなかったといいます。

その後30年も経った1978年に就学猶予、就学免除が原則として廃止されたのを受け、翌年1979年に養護学校の義務化が図られ、入学を許可されなかった子どもも入学できるようになりました。

知的障害、肢体不自由、病弱等のための養護学校の義務制の実施が遅れたのは、盲と聾の学校と違い、実績がなかったことと、敗戦後の混乱と財政的窮乏の中で、一般の小学校、中学校の義務教育をまず優先させたからだとわかりました。

その後、障害の種類に応じた学校が設置されるという形はできたものの、障害児への教育の目指すものが何であるのかがはっきりしないまま学校が次々に作られていったようです。

なるほど、その時点で、

・障害とひと言で言っても千差万別で、「個別の対応が必要」であるという認識自体が欠けていた。

・個々に応じた特別な支援のもと、普通校での教育とは違った、障害に応じたカリキュラムの検討が不十分だった。

と想像します。

特殊教育学校が設置され就学が義務づけられた段階で、実績がなかったために教育方法が検討されないまま学校が次々に作られた、という経緯を考えると、「通学ありき」のような気がしてなりません。

もちろん、十分な数の学校設置は家庭にとっては悲願であったには違いありません。

しかし、教員時代から疑問に思っていた、

「重度の子どもたちの多くが身体が重度、すなわち見かけが重度というだけで教科書が『絵本』であること」

活動を始めてからも、

「重度の子どもや成人に近い方のベッドサイドに行くと、依然、枕元に『絵本』が置いてあったりする」

過小評価の甚だしさ怒りがこみ上げます。

「特別支援の子ども達のための教科書」に星本というのがあります。小学校でこくご、さんすう、おんがくの星1つから星3つまであって学年にとらわれず習熟度別に選べるのです。中学は星4つで3教科。そのほかは一般図書という名の「絵本」なのです。

また、障害のある子たちにも普通校の生徒と同じ経験を、ということで特別支援学校でも、運動会、文化祭、修学旅行などの行事が行われます。

その教育的意義について深く検討されることもなく実施される。

本当はもっと個別の対応が必要なのにと思うと一斉行事をたくさん行うことが乱暴に思えてなりません。

この状況は先に述べた、特別支援学校の歴史と大きな関係がありそうだということを改めて感じます。

重度の子どもたちへの教育がとても難しいことから、教師養成自体が成熟しないまま重度の子どもの数が増え、それに伴い学校の数が増えていった、という背景も忘れてはなりません。

教育を行う側の一方的な考えや基準の枠にとらわれたものになれば、 児童生徒の自信や意欲を奪ってしまうことになりかねません。

そんな中、現場では問題意識を持ちながら熱意と努力と工夫により踏ん張る教師もいる。決められたカリキュラムの中で時間やエネルギーを捻出し、子どもたち個々の本来持つ力を引き出そうとする教師がいるのも事実です。

人としてよく成長し、よく生きる権利は誰もが持っています。 

そこに憲法第25条に定める「国民の生存権、国の保障義務」の意味があり、

憲法第26条に定める「教育を受ける権利、受けさせる義務」 が生きます。

特別支援教育が、その難しさに甘んじることなく、子どもたちがよりよく生きる権利を全うするための手法を見出し一般化されることを、願ってやみません。

参考:障害児教育の歴史

教科書目録(平成31年度使用) 平成30年4月文部科学省