〜重複障害教育のこれから〜

重複障害研究者(1927~2000)中島昭美先生の「障害と人間存在の本質」*というあるシンポジウムを通した手記を読みました。

その中で、日本盲ろう者を育てる会第4回全国大会で発表した筑波大学附属盲学校高等部3年の盲ろう者のFくんの話を聞いて、しみじみと教えられた、というくだりがあり、夢中で読んだのです。

そうだ、このFくんとはあの尊敬する福島智さん*(日本のバリアフリー研究者。東京大学教授)だとすぐにわかりました。

4歳の時に病気のために片目を摘出し、9歳で失明、14歳で片耳が失聴、17歳でもう片方の耳も聞こえなくなり、直後に完全に盲ろうになった福島さん。高校生の時にすでにこんなに素晴らしい感性を持っていた、と重度・重複障害教育の大家である中島先生を唸らせていたのです。

福島さんは、

盲ろうになって失ったものは数知れずあるが、得たものも少なくないと話しています。

そのうちの1つは、人の心を肌で感じられるようになったこと。

外見的な特徴や喋り方などに左右されることがないので純粋に相手の言いたいことが伝わってくる・・。

お母様の考案した指点字で相手の言うことを通訳してもらいながらコミュニケーションをとる福島さんですが、指点字を通して人間の「手」というものがその人の性質を表すものだということがわかったと。

参考:生井 久美子著「ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて」

また、これから大学に行くことの本質的な動機は、健常者の中で自分を見つめ直すことにあると。

努力を重ねて外見的に健常者と同じような生活ができたとしても意味がない。

むしろ自分の障がいを通して、またそれによって生まれてくる言い知れぬ心の痛みを通して、物事をどのように捉えていくのか、が大事といいます。

目が見えない、耳が聞こえない盲ろう者は、うわべにとらわれがちな社会の価値判断の基準に縛られにくいことをも意味している。感性を磨いて物事の本質的価値基準を持って生きていくとき、初めて障がい者が真の意味で社会の一員になれる。

障がい者でもできる、ではなくて障がい者だからできる、という存在であることを、自分自身に、社会に問いかけ続けたい、と福島さん。

障がいを受けることはその人にとって不幸で不便で情けないことと思われがちだが、それによって得るもの、深まるもの、増すものを考えないのはあまりにも一方的ではないか、と中島先生は言います。障がいがあろうとなかろうと、その人自身が地道に生き、充実した生を全うすることが大切。労働で得たお金で食事をし、満足感を味わうより、存在そのものの中にある真実をよりよく見通すことによって、生の充実感を味わう方が大切だ、と。

今日の障害者教育が、障がいの持つ本当の意味について十分に考えているだろうか。健常者を基準に、健常者に近づこう、障がいを克服しようとすることばかりに重点の置かれる教育に意味があるのか、と。

人々の意識、無意識に対し、バッサリと問題提起しています。

いかに固定観念の中で狭義にとらわれて私たちは生きているのか、思い知らされます。

30年以上前の中島先生の問いかけに現在の重複障害教育が応えられているだろうか。障がい者でもできるではなく、重い重複した障がいを受けたからこそできる、という価値基準をこれからの重複障害教育が深めていくことを願います。

中島昭美「障害と人間存在の本質」 ningensonzai.pdf

中島昭美・人と業績 – 重複障害教育研究所

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福島智著「ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)」