〜SHJヒストリー4 始めて担任したTくんは心の先生〜

そんな東大病院での生活の中で特に印象に残っているのが、教員になって初めて担任として受け持ったTくんとの出会いです。

難病を発症して既に数ヶ月の入院生活。化学療法中で白血球値が下がっていて、ベッド上を無菌状態にする透明ビニールのカーテン、クリーンウォールを通しての始業式となりました。

手指の消毒をし、無菌室用のガウン、帽子、マスクを着用して校長先生と入室。形式的なやり取りを済ませ、午後ゆっくりと病室訪問。

お母さんが、「ほら、先生が来てくれたよ」と声をかけると、「先生?来てくれてありがとう」と。なんと礼儀正しいのだろうと感心していると、次に耳にしたのは、

「先生、ごめんね。僕もう目が見えなくなって、せっかく来てくれたのに先生のことが見えないんだ」

この時の気持ちを表現する言葉は見つかりません。

クリーンウォールに入って一緒に活動することはできるのか、消毒すれば物を持ち込んでいいのか、音楽は?どのくらいの時間ならそばにいていいのか・・・主治医に質問攻めにした覚えがあります。怒りこそ込もっていたかもしれません。先生、なんとかしてください!と言わんばかりの。

とにかく残された時間を楽しいことでいっぱいにしようとあれこれ考える。

だけど新米教員は、自分の運命を受け入れ静かに病と闘っている少年を前に、非力さを思い知らされ唇を噛むばかり。

時間は過ぎる。そして3週間後。悲しい日が訪れました。

何もできなかった。

何も。

時間が過ぎ、Tくんに何もできなかったことの埋め合わせをするかのように、何か面白そうなことを週末のたびに探し求めました。Tくん、君だったら何がしたい?

Tくんは私がするべきことを教えてくれました。

小学生の間ではその頃「怖い話」が流行っていて、短編集を買っては小学生男子の部屋へ。お話の世界にぐーっと入り込んで、なぜか恐怖感に心が躍りました。病院で?と賛否両論あり。でも確かにNくんとJくんと3人、はしゃいだ思い出は宝もの。

フエルトやビーズetc.を買い込んでは中学生女子の部屋へ。手と一緒に口も忙しく動く・・。やっぱり作るって楽しいね。おしゃべりもなぜかはかどります。

流行りの洋楽をCDにコピーしてはRくんのところへ。部屋で一緒に聞きながらリズムをとったなぁ。

そのうち、英語の授業を通してカーペンターズの”Top Of The World”が大流行(するように仕向けた?!)。

英語教員になってよかった✌︎。堂々と自分の好みの洋楽を教材にできる。

余談ですが、学校で採択する教科書は生徒に配布しますが、実際は元の学校に戻るために一人ひとり自分の持っている教科書を使います。ですから実質個別授業。でも見事に全ての教科書にこの”Top Of The World”が載っていたんです。

タイムスリップしてすっかり中学生気分。ダイアトーンポップスベスト10を一人懐かしむ。

みんな一生懸命歌詞を覚えて、中学生全員合唱を披露するまでになりました。ゴズペル調にからだごと。

Such a feeling’s coming over me….There’s wonder in most everything I see….

こんなことが続き、中学2年のSさんとの日々も重なり、いつの日かお母さんの雑用代行はどこかへ飛んでしまいました。

夢はひとつにまとまった!本格アートを子どもたちに!

続く・・。

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〜SHJヒストリー3 SさんはSHJの原点〜

東大病院の院内学級1年目の冬、脳腫瘍予後の重い後遺症と闘っていた中学2年生のSさんの容態が悪化。かねてからSさんは憧れの声優・田中真弓さん(ワンピースのルフィー役)に会いたいという夢を持っていました。

難病の子どもの夢を叶える団体Make A Wishを通して時を置かず、田中さんが病室に。

視力を失っていること、言葉が発せなくなっていることを伝えられていた田中さんは、ルフィーの声を録音した目覚まし時計をプレゼント。そしてしばらくルフィーと、いえ田中さんとSさんの心の交流が続きました。

Sさんとお父さんの喜んでいる様子は脳裏に焼きつきました。

その後、さらに悪化すると、Sさんの好きなことをたくさんしよう、ということになり、教員が代わる代わる愉快な活動を持って病室へ。

私の担当は、手先が器用で作ることが大好きなSさんと手芸を。

ネイルアートにも憧れているとお父さんから聞くと、私のいとこのネイルアーティストに通ってもらうことが実現。手や足のマッサージの後に丁寧に好きなモチーフで施術。見えなくても温かい手のぬくもりやマッサージの心地よさを感じ、爪に描かれていくさまを想像しながら、大満足の様子でした。仕上がっていく過程で、数人の教員が解説者よろしくコメントを投げるのもまた笑いを誘いました。

訪問者がいる間くらい息抜きを、などと考えるのは当事者意識に欠けるというもの。子どもの楽しむ姿が何よりの家族の励みなんだ、ということにだんだんと気づいていきました。

お母さんの大変さが身にしみていた頃、別の角度からの自問自答が始まりました。お母さんは、自分が忙しいのは我慢できる、でも子どもが当たり前に子どもらしい生活ができないのが一番辛いと。子どもには今しかない、という思いも。

だからこそ、今を大切に、今を充実させたい・・・。

そうだ、子どもがたくさん笑う、たくさんワクワクする、そしてたくさん夢中になる。そんな活動を繰り返しプレゼントできたら・・。ここがSHJの原点となりました。

お母さんの雑用の代行は対症療法、子どもたちをワクワクさせることは体質改善。親子の闘病生活を根っこから変えられるんじゃないかと。

代行は細々と続けつつも、本格的な創造的活動を子どもたちに届けるプランは膨らみました。いてもたってもいられないくらい。

これがいつの日か私自身の夢 Wishとなりました。

続く・・。

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〜SHJヒストリー2 母親向け雑用代行ボランティア〜

交通事故による多発性外傷とリハビリのための長期入院を経て必死でとった教員免許。配属された学校は、図らずも難病や障がいで長期入院をしている子ども達のための病院内学級。

「運命」ってこのことでしょうか。

この数年間の苦しみが生徒たちに重なりました。

知らないこと、分からないことずくめの毎日、子どもたち、先輩教員から学びつつ、彼らとの生活に次第にのめり込みました。

目の前の子どもたちの打たれ強さや他人に対する思いやり、不条理を受け入れる潔さ、そのすべてに魅了され引き込まれていきました。命の尊さを教えられ、彼らから学び続けたい、一緒にいたいと心から願うようになりました。

結果がSHJ立ち上げとなったわけですが、そこに至るまでの子どもたち、お母さんたちとの日常を振り返ってみます。

院内学級に慣れる間もなく、子どもたちの付き添いをするお母さんたちの苦労を日々目の当たりにするようになりました。

ランドリーでの洗濯やベッドまわりの整理整頓、そして生活用品の買い出し、各種振込のために郵便局へ、合間に治療や検査の結果について医師から説明を受け、時間を見て兄弟のために一時帰宅、再び病室へ、簡易ベッドで添い寝etc・・。

院内学級に子どもが行っている間に諸々を忙しく済ませるお母さん。

かたや、安静が必要な子どもは基本週6時間のベッドサイド授業、欠席の場合はつきっきりとなり、用事を済ませることができず、それもストレスの素になったりします。

お母さんたちのそんな日常を見、悩みを聞くうち、いつか母親向け雑用代行ボランティアグループを作ろう!と考えました。加えて、子どもの安静時間に、または子どもを保育士さんに預けてお母さんたちのほっとする時間を作る。趣味やお茶の会を組み合わせて・・。とプランは膨らみました。

思い立ったら吉日。

放課後、職員室での書類作りを一気に済ませるとお母さんたちのもとへ。

まずは新しい服を買いに行く暇もないお母さんたちの不自由な生活に少しでもうるおいを、と考え、通販のカタログを回覧して注文を取り、商品が届いたら病室へ届ける(当時はネット通販が今ほど一般的ではありませんでした)、教員の業務の合間に代わりに買い物に行く、帰宅途中でオムツを買って帰り、次の日届ける・・オムツを持って職員室に出勤するわけにはいかないので、そんな時はいつもより早く家を出てまず病室へ。細々とですが職員室には内緒で思いを実行に移していました。

こっそりお母さんたちと飲みに行ったこともありました。子どもたちが寝るまで私は職員室で教材作り。頃合いを見て玄関外で待ち合わせ。それぞれの子どもたちの生の毎日、治療の経過を聞かせてくれたお母さんたち。時には夫婦関係の悩みまで。

病室を離れたお母さんたちはちょっと心が解放されたようです。 

涙はいつも一緒でした。

続く・・。

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SHJヒストリー1〜小さな勇士たちとの出会いを生んだ「やっぱり学校で英語を教えたい!」〜

SHJを始めた経緯について個人的なストーリーを綴ってみます。

英語教師になりたい!

子育てが落ち着いた頃、幼児や中高生を対象に家庭教師をしていました。いつの日か、学校で教えたいと思うようになり、教室で大好きな子どもたちに囲まれていたいという下こごろを胸に、大学に入り直し、教員免許取得を目指しました。レポートを書くなどは何年ぶりでしょうか。キラキラ輝く子どもたちの瞳を浮かべては、ウキウキ教科書を読んではペンを握る毎日でした。

挫折の日々・・

しかし、単位があと半分というところで大きな交通事故に遭遇。衝突の瞬間から意識を失い、気付いたのは救命センターで数日過ごしたあとでした。白衣の姿が忙しそうに動き回る中、家族が心配そうに私の名前を呼びながら覗き込んでいるのを見て事の重大さをぼんやりと察知しました。数日生死の境をさまよっていた私の姿はひと回りもふた回りも小さく見えたと聞きました。奇跡的に、そして医師の懸命の治療の甲斐があって回復。その後は数回にわたる手術を伴う長期入院と1年間のリハビリという生活を強いられました。肩の複雑骨折後、ペンを握ることもできなくなりレポート提出もままならず(17年前の当時はまだ手書きのレポートでした)、一度は退学を考えましたが、子どもたちとの学校生活への夢をどうしても諦めきれませんでした。

転んでも夢はあきらめず・・・

なんとか左手でレポートを作成し、ホッとしたのもつかの間。教育実習では、キラキラ輝くはずだった子どもたちの瞳が、40歳過ぎたオバさんがピチピチの大学生と一緒に実習する私への好奇?の目に差し替えられていて、自分の迂闊さを恨む羽目に。針のむしろ?いえいえ、やっぱりこどもは優しいもの。私を気遣ってあれこれ助けてくれたものです。事故の後遺症で右腕が上がらず板書もおぼつかないことを子どもたちは理解してくれ、見にくい文字に、文句一つ言いませんでした。

子どもってなんて素晴らしいんだろう!。教壇に立って教えるつもりが、最初から子ども達の方が私にとって教師となりました。

病院の子どもたちとの出会い

配属された学校は、難病や障がいで長期入院をしている子供達のための病院内学級。この時ほど「運命」を感じたことはありません。この数年間の苦しみを生徒たちに重ね、まるで同志に会いに行くような気持ちで迎えた初日。

しかし、目の前にいたのはただ痛い痛いと横になっていた自分とは正反対の、勇気を持って病気に立ち向かう小さな勇士たち。甘い甘い、あなたがこどもたちから学びなさい、そして自分の経験を生かすように、との使命を突きつけられた気持ちでした。

目の前の子どもたちの打たれ強さや他人に対する深い思いやり、不条理を受け入れる潔さ、そのすべてに魅了され引き込まれていきました。いかに生きるべきか試され、命の尊さを教えられ、彼らから学び続けたい、一緒にいたいと心から願うようになりました。

続く・・

SHJヒストリー はじまりはじまり〜!

Smiling Hospital Foundationは2004年、ハンガリーで始まりました。松本が勤務していた米国銀行Chase Manhattan Bank(現JP Morgan Chase Bank)の退職者会のつながりで、日本に9箇所目のスマイリングホスピタルを作ろうというプロジェクトが舞い込んできたのです。遠く離れた場所でいつの日か運命の糸が繋がっていました。設立者Albert Royaards氏は銀行を辞め、弁護士として活動する傍ら、病院の子どもたちにアートを届ける活動を始めました。松本がちょうど院内学級の子どもたちとの生活にのめり込んでいた時期です。自分がまさにやりたかったこと、自分がやらずに誰がやる?、と瞬時にSmiling Hospital Foundation in Japanの立ち上げを決意しました。Royaards氏から「病院の子にアートを」というアイデアをもらい、そのあとはメールで意見交換。活動場所として赤十字社の国際部へ、それと資金援助元としてFIAT(現 FCAジャパン株式会社)につなげてくれた彼からの支援をもとに、東京ボランティア市民活動センターに通い詰めでボランティア団体を立ち上げるための勉強の毎日でした。まずは任意団体として活動開始し、半年後の2012年12月にNPO法人を設立しSmiling Hospital Foundation in JapanからSmiling Hospital Japanとして独立しました。写真は、その翌年青山FIAT CAFÉで行ったチャリティイベント出席のために来日したAlbert Royaards氏。

最初に受け入れてくれた病院は神奈川県立こども医療センターでした。神奈川の病棟保育士の集まりでプレゼンをする機会を得、そこで手を上げてくれたのがこの病院でした。1年間はここで病院ボランティアのあるべき姿を学びながら活動、2年目に日本赤十字医療センターにて開始することになりました。その後1年は2つの病院で活動しながら他の病院へのアプローチを模索する日々でした。3年目からは勢いよく広がっていき、現在、北海道、宮城、千葉、東京、神奈川、静岡、愛知、京都、大阪、兵庫、広島の36の病院、施設、在宅で活動、7月は福岡の2つの病院で、8月は関東の3つの病院で開始します。

この広がりの源は、任意団体の頃からの途切れることないFCAジャパンからの支援(Share With FIAT)と2014年からの日本財団(TOOTH FAIRY PROJECT)からの支援。それから各地区のアーティストのネットワークが生きたこと。そして特筆すべきは各地区で名乗りを挙げてくれたコーディネータのリーダーシップが何よりの力となっています。アーティスト数は130を超え、活動アシスタントは10名となりました。運営は事務局4名で頑張っています。この先の成長も、SHJメンバー全員が子どもたちから学ぶことを忘れず、そしてたくさんの方に見守っていただいてこそ。これからもよろしくお願いします!

SHJ Official Website  http://www.smilinghpj.org/